「その申請書に、名前を書くな」 昭和49年、ぜん息で学校の校庭に倒れた12歳の娘へ、父はそう言った。 父が18年間働いてきたのは、町の空を煙で覆う臨海工場。 申請すれば、治療費の負担が軽くなるかもしれない。 だが同じ頃、父には念願だった班長昇進の話が出ていた。 「会社と地域の間に立つ人間として、よく考えてほしい」 係長の言葉に、父は申請書を引き出しへしまった。 数日後、食卓に置かれた書類には、娘の名前だけが書かれていた。 「私、お父さんの会社を潰したいんじゃない」 娘は咳をこらえながら、父を見上げた。 「ただ、息がしたいだけ」 その週の土曜日、父は娘と役所を訪れた。 保護者署名欄を前に、父のペンは長い間止まったままだった。