"「名前を書くな」公害病の申請を止めた父と、娘の「息がしたいだけ」" 第1話
昭49の、川崎の臨業帯にい町では、夕方になると空のがわずかに濁って見えるがあった。度経済成の勢いは以ほどではなくなっていたものの、宅の向こうにはの煙突が何本も並び、が落ちればの灯りが平線のように続いていた。夜勤の交替になると作業着姿の男たちが自転で斉に側へ向かい、その流れと逆方向へ、昼勤を終えた者たちが疲れた顔で帰ってくるのが町の常だった。
学1になったばかりの井美紀は、幼い頃から気管支がかった。特にと、が止まって空気がくじられるは咳が続き、夜に胸が締めつけられるようになると、母の芳が布団の横へ座って背をさすってくれた。症状がひどいには、父の忠雄が寝着のに作業着を羽織り、自転の荷台に美紀を乗せて夜診療所までったことも度や度ではない。
それでも、美紀は自分を「病気の子」だといたくなかった。体育を休めば友達から特別扱いされるし、教で薬をめば「また苦しいの」と配されるのが嫌だった。しくらい胸が苦しくても黙ってり、咳がそうになれば舎のへってをみ、治まった顔をして教へ戻ることを覚えていた。
10のある、体育の授業で持久の練習があった。
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庭を5周する予定だったが、美紀は2周目の途から胸の奥が狭くなるのをじ、息を吸っても空気が入ってこないような覚に襲われた。それでも友達に遅れたくなくてり続けたが、3周目へ入るにとうとうが止まり、そのへしゃがみ込んでしまった。
「井、丈夫?」
体育教師の声は聞こえていたが、返事をするだけの息が続かなかった。喉から細い音が漏れ、自分の胸なのに誰かのでく押さえつけられているようだった。保健へ運ばれたあと、学から連絡を受けた芳が駆けつけ、そのままかかりつけの病院へ連れていった。
診察を終えた医師は、美紀を廊で待たせ、芳へ枚の用を見せた。けれど診察の扉が完全には閉まっておらず、美紀にもの声は聞こえていた。
「以からお話ししようとっていました。度、認定の申請について相談されてもいいといます」
「認定、ですか」
「公害による健康被害の制度です。申請すれば必ず認定されるというものではありませんが、美紀さんはこの域にくんでいて、ぜん息の治療歴もあります。学活にも響がていますから、なくとも相談窓へくはあります」
芳はすぐに尋ねた。
「認定されたら、治療費の負担も軽くなるんでしょうか」
医師は制度についてつずつ説した。
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美紀は詳しいまでは分からなかったが、自分の病気と、町の空気と、「公害」という言葉が同じ話のへ初めて並んだことだけは分かった。
帰宅すると、芳は診察でもらった申請用を器棚の引きしへ入れた。忠雄が帰宅するのを待ち、夕の支度をしながら何度も引きしへ目を向けていた。
夜8を過ぎた頃、玄関の戸がいた。
忠雄は48歳。臨部にある化成川崎で18働いていた。紺の作業着には械油の匂いが染みつき、呂へ入っても爪の隙には黒い汚れが残る。へ帰るとまずを洗い、湯呑み杯のをんでから夕につくのが毎の決まりだった。
「美紀、学で倒れたんだって?」
席につくなり忠雄が聞いた。
美紀は父が配してくれているのだとい、し嬉しくなった。
「もう平気」
「平気じゃないでしょう」
芳が横から言った。
「先からも、しばらく体育は無理しないようにって言われたのよ」
忠雄は娘の顔を見たが、それ以は何も言わなかった。そこで芳は卓の引きしから申請を取りし、噌汁の椀の横へ置いた。
「お父さん、これ見て」
忠雄は箸を置いた。
申請をに取る。
最初の数を読んだところで、表が変わった。
「これ、病院でもらったのか」
「先が度相談した方がいいって。美紀もく治療してるし、今みたいなこともあったから」
忠雄は用を最まで読まなかった。