"退職金より重い家計簿" 第5話
1週、麻美は隆を母の平に呼んだ。
ちゃぶ台のには、湯呑みが2つと、い封筒が1つ置かれていた。
隆は部に入るなり、わざと軽い調子で言った。
「戻る話なら聞くぞ。俺もしは考えた。飯も洗濯も、まあ、変だってことは分かった」
麻美は湯呑みにお茶を注ぎながら、その言葉を静かに聞いていた。
隆なりに譲歩しているつもりなのだろう。
けれど、その言い方にはまだ、麻美の暮らしを軽く見ている響きが残っていた。
麻美はい封筒を隆のに差しした。
「今は、戻る話ではありません」
「じゃあ何だ」
「婚の話です」
隆の顔から血の気が引いた。
「待て。をたのは悪かった。退職も話しう。だから、そこまでしなくていいだろう」
麻美は静かに首を横に振った。
「私は、おだけでったんじゃありません」
「じゃあ何だ」
「あなたは退職が入った瞬、私の40をなかったことにしました。“俺のに触るな”と言って、私のまで管理しようとしました」
「言い過ぎだ。それは謝る」
「謝って戻れるなら、私は昨までの私に戻れますか」
隆は黙った。
麻美は封筒から婚届を取りし、ちゃぶ台のに置いた。
「は私が守ります。老資も私が管理します。あなたには必な続きをしてもらいます」
隆のが震えていた。
「俺はこれからどうすればいいんだ」
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「自分の活を自分で考えてください」
その言葉に、隆は肩を落とした。
隆は60歳を過ぎても、ののことをほとんどらなかった。洗剤の所も、保険の支払いも、固定資産税の期も、蔵庫のをどう回すかも、何もらなかった。
それでも彼は、麻美に向かって「にいただけだ」と言ったのだ。
麻美はその矛盾を、もう抱え込むつもりはなかった。
「本当に終わりなのか」
隆がい声で尋ねた。
麻美はまっすぐ隆を見た。
「はい。私はもう、あなたの顔で1を始める暮らしには戻りません」
では、梅の枝がに揺れていた。
はまだかったが、枝の先にはさな芽が見えていた。
隆は婚届を見つめたまま、い何も言わなかった。
麻美も急かさなかった。
40続いた活の終わりは、鳴り声ではなく、静かな沈黙のにあった。
その沈黙ので、麻美は初めて、自分のの予定を自分のためだけに考えていた。
朝、何に起きるか。
何をべるか。
誰に会うか。
どのを歩くか。
そんなさなことさえ、これまでは隆の嫌にされていた。
けれど、これからは違う。
麻美は湯呑みを両で包み、ゆっくり息を吐いた。
婚の話しいは、簡単には終わらなかった。
隆は最初、婚届に署名することを拒んだ。
「世体が悪い」
「今さら1になれるわけがない」
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「夫婦なんだから、のことはするものだ」
何度もそう言った。
けれど、麻美の気持ちは変わらなかった。
必な続きは専にも相談しながらめた。の名義、預の管理、活費の理、今のまいのこと。麻美は1つずつ確認し、曖昧にしなかった。
以の麻美なら、隆の嫌を見て途で折れていたかもしれない。
けれど今は違った。
自分が守ってきたものを、自分で守ると決めたからだ。
隆はしばらく親戚のを転々とした、さな賃貸に移ったと聞いた。
最初のうちは、麻美のところへ何度も話をかけてきた。
「炊飯器の使い方が分からない」
「保険の類はどこだ」
「役所から何か届いた」
麻美は必最限のことだけを伝えた。
それ以はをさなかった。
「自分で確認してください」
そう言うたび、隆は嫌そうに黙った。
けれど、麻美はもうその沈黙に怯えなかった。
ある朝、麻美は自宅の窓をけた。
たい空気が部に入り、カーテンがふわりと揺れた。台所には、自分のためだけに淹れた噌汁の湯気ががっていた。
誰かに急かされることもない。
がいと文句を言われることもない。
聞を広げたまま「飯はまだか」と声をばされることもない。
静かだった。
その静けさは、寂しさではなく、自由だった。
麻美は卓に座り、ゆっくり箸を取った。
壁の計の音が、規則正しく響いている。
これまでの40がすべて無駄だったとはわない。
娘を育て、を守り、必に暮らしてきたは確かにあった。
けれど、誰かに軽く扱われたからといって、自分の価値まで軽くなるわけではない。
そのことに気づくまで、麻美はいをかけてしまった。
数週、隆からいが届いた。
「俺が違っていた。おがしてきたことを何も見ていなかった」
便箋には、ぎこちない字でそうかれていた。
麻美はそのを最まで読んだ。
胸がまったく揺れなかったわけではない。
連れ添った相だ。謝罪の言葉を見れば、のどこかが痛む。
けれど、それは戻る理由にはならなかった。
麻美はを丁寧に折り、茶の封筒とは別の引きしにしまった。
夕方、庭にると、梅のがしいていた。
麻美はそのさなを見つめながら、そっと呟いた。
「私はもう、自分を売りしない」
退職は、隆にとって自分の価値の証だったのかもしれない。
けれど麻美にとって本当に切だったのは、おそのものではなかった。
自分のを、誰かの所物のように扱わせないこと。
40の暮らしを、なかったことにさせないこと。
そして、自分のを自分で選ぶこと。
麻美はの鍵をに取り、玄関を閉めた。
かちり、とさな音がした。
その音は、終わりの音ではなかった。
麻美が自分のを取り戻す、しい始まりの音だった。
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