みかん小説
本棚

"退職金三千万円と残高三千円の通帳" 第1話

 

「退職、いくらあるんだ?」

43勤めげた会社から束を抱えて帰ってきたその、夫の正隆が最初ににしたのは、その言でした。

玄関をけた、私はしだけ期待していました。

「お疲れ様」

せめてその言くらいは、夫から聞けるとっていたのです。

「ただいま」

靴を脱ぎながら声をかけても、返事はありませんでした。リビングのソファーに寝そべっていた正隆は、テレビから目をさず、私の顔も、束も、会社から渡された記品の袋も見ようとしませんでした。

そして、画面を見たまま言ったのです。

「退職、いくらあるんだ?」

私はリビングの入りったまま、しばらくけませんでした。

43働いた最。夫が最初に気にしたのは、私の体でも、仕事でも、これからのでもありませんでした。

でした。

「3000万円くらい入ったんだろう?」

正隆は続けました。

私は束を胸に抱いたまま、ゆっくり息を吸いました。

「ただいまの次が、それ?」

ようやくからたのは、それだけでした。

正隆はそこで初めてこちらを見ました。けれど、その顔に申し訳なさはありませんでした。むしろ、なぜ私が満そうなのか分からないという顔でした。

「夫婦なんだから、の話をして何が悪い?」

「おの話が悪いんじゃないわ」

「じゃあ何が満なんだ?」

「私に、お疲れ様の言もなかったことよ」

広告

正隆は面倒くさそうに肩をすくめました。

「ご苦労さん。お疲れさん。それで満か?」

その言い方で、胸の奥が静かにえていきました。

私は束をテーブルの端に置きました。も入れず、ただ置きました。そうしないと、その束を夫の顔に投げつけてしまいそうだったからです。

正隆は私の様子など気にも留めず、さらに続けました。

「母さんも配してたぞ。おが退職を隠すんじゃないかってな」

その言で、部の空気が変わりました。

「お母さんが、どうして私の退職のことをっているの?」

「俺が話したからに決まってるだろ」

額も?」

「ああ。だいたい3000万円くらいだろうってな」

私は正隆の顔を見ました。しも悪びれていませんでした。むしろ、当然のことをしたという顔でした。

「私の退職を、お母さんに話したのね」

のことなんだから、母さんがっていて当然だろ」

「私の退職は、のことなの?」

「当たりだろう。おがこので暮らしてこられたのも、佐伯があったからだ」

私はその言葉を、胸のでゆっくり繰り返しました。

こので暮らしてこられたのは、佐伯があったから。

宅ローンの繰りげ返済に、自分のボーナスを入れてきたのは誰だったのでしょうか。朝5に起きて弁当を作り、洗濯をして、それから会社へ向かっていたのは誰だったのでしょうか。

広告

けれど、私は鳴りませんでした。

鳴っても、何も残りません。

言った、言わない。聞いていない。覚えていない。

会社で43働いてきた私は、記録のない言葉がどれほど簡単に消されるかをっていました。

「今は疲れたから、もう休むわ」

「逃げるのか?」

「逃げてないわ。ただ、今ここで話すことじゃないとっただけ」

の話は今夜する。母さんも来るぞ」

今夜。

その言葉を聞いた瞬、私は夫ではなく、証拠を残すべき相を見ているのだと自覚しました。

に入り、ベッドの端に腰をろすと、私はスマートフォンを取りしました。

録音アプリのアイコンを、しばらく見つめます。

記録はを救う。

会社で何度も学んだことでした。

私は録音アプリを、ホーム画面の番押しやすい所へ移しました。

の向こうから、正隆の話の声が聞こえてきました。

「ああ、母さん。今帰ってきたよ。嫌悪そうだ。やっぱり隠す気だな、あれは」

私は息を止めました。

「分かった。今夜のうちに通帳の所を聞きすよ」

通帳の所。

その言葉を聞いた瞬、胸の奥で何かがすっと静まりました。

私はがり、クローゼットの奥にしまってある古い通帳ケースを確認しました。

正隆が昔からっている、もうほとんど使っていない座の通帳。

は3187円。

印も、とっくに変えてあります。

古いキャッシュカードも使えません。

かすことはできません。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: