"消された妻の通院日" 第3話
優が指でそっと触れた、台所の奥で幸子がさく息を吸う音がした。
咳ではない。
痛みをこらえるの、い息だった。
優が振り返ると、幸子は何事もなかったように布巾を畳み直していた。角と角をわせ、もう度同じ形にする。そのきは丁寧なのに、首のきはし遅かった。
「優さん、お昼しべていく?」
幸子はそう聞いた。
自分の茶碗は朝から浅いままなのに、の事だけは先に気にしている。
「お義母さんは? べましたか?」
優がわず聞くと、幸子はすぐに笑った。
「でね」
その言い方は軽かった。
けれど優には、その「で」が、何度も何度もねられてきた言葉のように聞こえた。
1週ほど経った朝は、秀の診察のだった。
幸子はいつも通りにいた。
コートを子の背にかける。
保険証を内ポケットに入れる。
薬の帳と診察券を封筒に挟む。
付箋には「930分に受付」といた。
それを封筒の表に貼ると、秀は封筒をに取り、軽く眺めた。
「おは病院のことになると細かいな」
声の調子は、咎めるでも、謝するでもなかった。ただののようだった。
「忘れると困りますから」
幸子はそれだけ答えて、台所に戻った。
そのの夕方、幸子は流しのにっていた。お湯をしながら、茶碗を1枚ずつすすぐ。の音がしばらく続いた。
広告
その、茶碗が1枚、指のを滑った。
流しの底に当たり、乾いた音がした。
割れてはいなかった。
秀が台所の入まで来た。
「またか。げさだな」
幸子は振り返らなかった。
「し休めば丈夫です」
茶碗を拾いげ、でもう度すすいだ。
けれど布巾で拭こうとして、が止まった。布巾は片に引っかかったまま、しばらくかなかった。
秀は廊に戻った。
夜になり、秀は体がい気がして、自分の薬を探した。寝の棚にはなく、台所の引きしをけた。
輪ゴムの箱。
古い封筒。
古い池が2本。
そのに、4つ折りにされたがあった。
の端は柔らかく、何度もかれた触りがした。
広げると、細かい字が並んでいた。
の段には、秀の名がきくいてある。
診察の。
血圧の薬は朝ご飯の。
保険証を忘れないこと。
をめに持たせること。
待が寒いこと。
全部、幸子の字だった。
読みやすく、きちんと揃った字だった。
そのに、さく別の名があった。
「幸子」
真横には、胸の痛み、めまい、階段で息切れ、先に相談、とい言葉が続いていた。
その文字には横線が引かれていた。
1本ではない。
何度かねて引かれていた。
それでも字はまだ読めた。
さらにには付が並んでいた。
「秀さんの診察のとなるので、私の予約は来週に変える」
「もう度変える」
広告
そのに、い1があった。
「私の分はで」
秀は台所のにったまま、を持っていた。
計は1をし過ぎていた。台所は静かだった。
の裏側を返そうとした、折り目のところに細い字が部だけ見えた。
「痛いと言うと」
その先は古い折り目に隠れて読めなかった。
寝の方から、幸子がさく咳をする音がした。
秀はを止めた。
そのを最まで読むことが、急に怖くなった。
翌朝、卓に幸子の茶碗はていなかった。
幸子の子は引きされていたが、座面には何も置かれていない。台所の奥で、やかんのは消えていた。
秀は茶の封筒をにしたままっていた。
まだいていないが1枚ある。
端に「紹」と見えるだった。
それをけば、何かが分かるのかもしれない。
けれど廊の奥で幸子の音が止まり、秀は封筒を閉じた。
今まで何も聞いてこなかった。
自分が急にだけをくこともできなかった。
昼、優が顔をした。
台所に入ると、幸子がコンロのにっていた。鍋のはついていない。が鍋の縁にかかっている。
「お義母さん」
幸子は振り返り、いつもの顔をした。
「ちょうどよかった。噌を切らしていたの」
優が棚を確かめると、噌は奥の段にちゃんとあった。
優は何も言えなかった。
言えば、幸子がまた笑ってしまう気がした。
その笑い方を見たら、自分の方が耐えられないとった。
幸子も何も言わなかった。
ただ、子を引いて、ゆっくりと座った。
広告
おすすめ作品
-
完結第6話
68歳、レジで再会した友
5年前、幸子は友人・道代に笑われた。 「まだ働いてるんだね」 「月1万円の積み立てなんて、やってないのと同じじゃない」 年金10万円でスーパーのレジに立つ幸子と、余裕のある老後を語っていた道代。あの日の小さな笑い声は、幸子の胸にずっと残り続けていた。 それから5年後。 68歳になった幸子のレジ前に、道代が突然現れる。手にしていたのは、半額の惣菜と安い食パンだけ。かつて自信に満ちていた彼女の手は、なぜか小さく震えていた。 そして道代が置き忘れたポイントカードの下には、たった一言だけ書かれた紙が挟まっていた。 「相談があります」 5年前に笑った人と、笑われた人。 同じ喫茶店で再び向き合った二人を待っていたのは、思いもよらない老後の現実だった――。人生逆転|第二の人生|金銭問題8.6千字5 0 -
完結第6話
雨の夜の招待状
還暦を過ぎた林義子は、夫の書類カバンから一枚の招待状を見つける。 そこに書かれていたのは、夫・正雄と別の女性の名前。そして、3ヶ月後に京都の高級宿で開かれる結婚式の案内だった。 36年間、夫の食事を作り、薬を管理し、家計を守り続けてきた義子。だが夫はその裏で、共有財産を移し、退職金2200万円を隠し、新しい女との生活まで準備していた。 義子は泣かなかった。怒鳴らなかった。 ただ静かに証拠を集め、弁護士にすべてを託す。 そして迎えた結婚式当日。80人の招待客が見守る会場に、花嫁ではなく、1人の弁護士が現れる。 その瞬間、夫が夢見た新しい人生は崩れ始めた――。人生逆転|不倫|熟年離婚9.2千字5 1 -
完結第6話
骨壷に眠る花嫁
結婚式の2日前、山田晴恵は突然姿を消した。 婚約者との口論、消えた財布、荒らされた形跡のない部屋。警察は彼女を「結婚を恐れて逃げた花嫁」と判断し、事件は自発的失踪として処理された。 家族は世間の冷たい視線に耐え、婚約者は“残された新郎”として同情を集めたまま、時間だけが過ぎていく。 しかし6年後、群馬県の国道18号線沿いで排水設備の交換工事中、コンクリート製の雨水桝から異様な包みが見つかる。 中にあったのは、人間の頭部。 歯科記録の照合により、それは6年前に消えた晴恵のものだと判明した。 彼女は逃げたのではなかった。 では、誰が彼女を殺し、なぜ道路脇のコンクリートの中に隠したのか。 “逃亡した花嫁”という嘘が崩れた時、婚約者が守り続けた6年間の沈黙が、静かにほころび始める――。ミステリー|夫婦|真実|真相9.1千字5 0 -
完結第8話
四十九日、電話を切った妻
義母が急変した夜、私は海外出張中の夫に必死で電話をかけた。 けれど返ってきたのは、信じられないほど冷たい一言だった。 「お前とは1秒も話したくない。二度と仕事の邪魔をするな」 私は「わかった」とだけ答え、その日から49日間、夫に一切連絡しなかった。 義母の最期、葬儀、親族への連絡、すべてを私ひとりで終わらせた。 そして四十九日。ようやく帰国した夫は、何も知らないまま親族の前に現れ、私を責め始める。 だが、その場には義母が最後に残した“ある証拠”があった。因果応報|嫁姑|夫婦|介護1.3萬字5 2 -
完結第6話
スイスへ消えた妻
離婚届を突きつけられたその日、藤崎陽子は静かに住民登録を抹消し、スイス行きの片道航空券を握って成田空港に立っていた。 夫・達也は愛人の出産に付き添い、「跡取りが生まれる」と五十嵐家は歓喜に包まれていた。だがその直後、医師が告げた“ある一言”によって、彼らの幸せは一瞬で崩れ落ちる。 長年、嫁として、妻として、会社の実務担当として尽くしてきた陽子。しかし五十嵐家にとって、子を産めない彼女はただの“用済み”だった。 けれど彼らは知らなかった。人生逆転|夫婦|第二の人生8.5千字5 2 -
完結第8話
葬儀よりハワイ
80歳の田所吉郎は、55年間連れ添った最愛の妻・雪子を亡くした。 若い頃、貧しい暮らしの中で支え合い、二人三腳で小さな會社を築いてきた夫婦。だが雪子が病に倒れてから、息子の嫁・美香は見舞いにも來ず、介護に疲れた吉郎を助けることもなかった。 それでも雪子は最後まで、嫁に迷惑をかけまいと気遣い続けた。 そして迎えた葬儀の日。家族として最後の別れをするはずの美香は、義母の葬儀よりも友人とのハワイ旅行を選ぶ。吉郎は亡き妻に恥をかかせまいと、參列者には「體調不良」と噓をつき、靜かに頭を下げ続けた。 しかし葬儀の翌日、吉郎は決意する。 息子夫婦が住む一軒家は、吉郎が買い與えたもの。そして名義は、今も吉郎のままだった。 妻を軽んじた嫁に、吉郎が下した靜かなけじめとは――。人生逆転|親不孝|親子関係|修羅場1.1萬字5 74