"消された妻の通院日" 第1話
「また病院か。げさだな」
秀は、卓に置かれた予約票を見たまま、そう言った。
朝の台所には、噌汁の湯気が細くっていた。ストーブののやかんは静かに鳴り、テレビでは気予報の声がく流れている。このもれること、駅で事故があったことが伝えられていたが、秀は画面を見ようともしなかった。
台所の台には、そのの診察に持っていくものがきちんと並べられていた。
保険証。
薬の帳。
血圧の記録。
それらを入れたい封筒のには、予約票が置かれている。受付の、診察の番号、先の名、を止める所まで、さなメモに幸子の字でかれていた。
全部、幸子が昨夜のうちに揃えたものだった。
幸子は流しのにち、を流しの縁にかけていた。体を預けるほどではない。けれど、指先には普段より力が入っているように見えた。
しを置いて、幸子がさく言った。
「今、し胸が苦しくて」
その声は、湯気のに溶けるようにさかった。
秀は顔をげなかった。のの予約票にかれた文字を目で追いながら、もう度だけ息を吐いた。
「また病院か。げさだな」
それだけで終わった。
幸子は言い返さなかった。
ただ、鍋のをしめ、蓋を持ちげた。噌汁を皿にし移し、を確かめる。このも、いつもよりいだった。
広告
秀の血圧のために、何も続けてきただった。
血圧の薬を2錠、秀の茶碗の横に並べる。筒の蓋をもう度閉める。保険証は玄関にかかる秀のコートのポケットへ入れた。
朝が揃った。
秀の茶碗にはいご飯が盛られている。
幸子の茶碗は、いつもよりなかった。
をわせたも、幸子の箸はほとんどかなかった。秀が予約票を折り、封筒に入れるのを、黙って見ているだけだった。
しばらくして、玄関の戸がいた。
優がみかんと布巾を持って、いつもよりいにがってきた。台所に入ると、幸子がちょうど子からちがろうとしていた。
そのちがり方が、しだけ違った。
指先が卓の縁に触れ、体のさがほんの瞬だけそこへ逃げた。
それだけのことだった。
けれど、優は見てしまった気がした。
「お義母さん、丈夫ですか?」
幸子は笑った。
目の端がし細くなる、いつもの笑い方だった。けれど、その笑みはどこかかった。
「し休めば丈夫よ」
優は、それ以を聞けなかった。
優はみかんを器に移しながら、蔵庫の横にかかったカレンダーへ目を向けた。
今の付の1つに、太い赤丸がついている。
そこには、幸子の字できくかれていた。
「秀 診察」
丸の横には、保険証、薬の帳、、血圧の記録、とさくきしてある。
広告
その付のしには、もう1つ丸があった。鉛でくつけられた丸だった。磁が半分ほどかかっていて、元の字はしだけ隠れている。
優が読めたのは、文字だけだった。
「検」
検査。
そう読めた気がした。
優はみかんの皮をゴミ袋に入れようとして、を止めた。
袋のに、破れたが見えた。
それは2つに裂かれた予約票だった。片方の切れ目には名が残っている。
「幸子」
優の指先が止まった。
予約の数字は裂け目で途切れていた。優は袋の底をそっと探り、もう片方のを見つけた。2つをわせると、付が見えた。
今だった。
秀の診察と同じだった。
優はしばらく、そのをにしたままっていた。
見てはいけないものを見た気がして、胸の奥がえた。
破れたを元の形に戻したところで、何も元には戻らない。そのことだけが、朝ののではっきり分かった。
台所の奥で、やかんがまた鳴り始めた。細い湯気が静かにがる。
幸子は鍋の蓋を戻し、布巾でを拭いていた。振り返らないまま流しのにつ背は、何かを隠しているというより、もう隠す力も残していないように見えた。
玄関では、秀が靴を履く音がした。
優が台所の台に目を向けると、い封筒はなくなっていた。保険証も薬の帳も筒も、秀が持っていったのだろう。
けれど、1つだけ残っているものがあった。
引きしがしだけいている。
優はそちらへづいた。
広告
おすすめ作品
-
完結第6話
68歳、レジで再会した友
5年前、幸子は友人・道代に笑われた。 「まだ働いてるんだね」 「月1万円の積み立てなんて、やってないのと同じじゃない」 年金10万円でスーパーのレジに立つ幸子と、余裕のある老後を語っていた道代。あの日の小さな笑い声は、幸子の胸にずっと残り続けていた。 それから5年後。 68歳になった幸子のレジ前に、道代が突然現れる。手にしていたのは、半額の惣菜と安い食パンだけ。かつて自信に満ちていた彼女の手は、なぜか小さく震えていた。 そして道代が置き忘れたポイントカードの下には、たった一言だけ書かれた紙が挟まっていた。 「相談があります」 5年前に笑った人と、笑われた人。 同じ喫茶店で再び向き合った二人を待っていたのは、思いもよらない老後の現実だった――。人生逆転|第二の人生|金銭問題8.6千字5 0 -
完結第6話
雨の夜の招待状
還暦を過ぎた林義子は、夫の書類カバンから一枚の招待状を見つける。 そこに書かれていたのは、夫・正雄と別の女性の名前。そして、3ヶ月後に京都の高級宿で開かれる結婚式の案内だった。 36年間、夫の食事を作り、薬を管理し、家計を守り続けてきた義子。だが夫はその裏で、共有財産を移し、退職金2200万円を隠し、新しい女との生活まで準備していた。 義子は泣かなかった。怒鳴らなかった。 ただ静かに証拠を集め、弁護士にすべてを託す。 そして迎えた結婚式当日。80人の招待客が見守る会場に、花嫁ではなく、1人の弁護士が現れる。 その瞬間、夫が夢見た新しい人生は崩れ始めた――。人生逆転|不倫|熟年離婚9.2千字5 1 -
完結第6話
骨壷に眠る花嫁
結婚式の2日前、山田晴恵は突然姿を消した。 婚約者との口論、消えた財布、荒らされた形跡のない部屋。警察は彼女を「結婚を恐れて逃げた花嫁」と判断し、事件は自発的失踪として処理された。 家族は世間の冷たい視線に耐え、婚約者は“残された新郎”として同情を集めたまま、時間だけが過ぎていく。 しかし6年後、群馬県の国道18号線沿いで排水設備の交換工事中、コンクリート製の雨水桝から異様な包みが見つかる。 中にあったのは、人間の頭部。 歯科記録の照合により、それは6年前に消えた晴恵のものだと判明した。 彼女は逃げたのではなかった。 では、誰が彼女を殺し、なぜ道路脇のコンクリートの中に隠したのか。 “逃亡した花嫁”という嘘が崩れた時、婚約者が守り続けた6年間の沈黙が、静かにほころび始める――。ミステリー|夫婦|真実|真相9.1千字5 0 -
完結第8話
四十九日、電話を切った妻
義母が急変した夜、私は海外出張中の夫に必死で電話をかけた。 けれど返ってきたのは、信じられないほど冷たい一言だった。 「お前とは1秒も話したくない。二度と仕事の邪魔をするな」 私は「わかった」とだけ答え、その日から49日間、夫に一切連絡しなかった。 義母の最期、葬儀、親族への連絡、すべてを私ひとりで終わらせた。 そして四十九日。ようやく帰国した夫は、何も知らないまま親族の前に現れ、私を責め始める。 だが、その場には義母が最後に残した“ある証拠”があった。因果応報|嫁姑|夫婦|介護1.3萬字5 2 -
完結第6話
スイスへ消えた妻
離婚届を突きつけられたその日、藤崎陽子は静かに住民登録を抹消し、スイス行きの片道航空券を握って成田空港に立っていた。 夫・達也は愛人の出産に付き添い、「跡取りが生まれる」と五十嵐家は歓喜に包まれていた。だがその直後、医師が告げた“ある一言”によって、彼らの幸せは一瞬で崩れ落ちる。 長年、嫁として、妻として、会社の実務担当として尽くしてきた陽子。しかし五十嵐家にとって、子を産めない彼女はただの“用済み”だった。 けれど彼らは知らなかった。人生逆転|夫婦|第二の人生8.5千字5 2 -
完結第8話
葬儀よりハワイ
80歳の田所吉郎は、55年間連れ添った最愛の妻・雪子を亡くした。 若い頃、貧しい暮らしの中で支え合い、二人三腳で小さな會社を築いてきた夫婦。だが雪子が病に倒れてから、息子の嫁・美香は見舞いにも來ず、介護に疲れた吉郎を助けることもなかった。 それでも雪子は最後まで、嫁に迷惑をかけまいと気遣い続けた。 そして迎えた葬儀の日。家族として最後の別れをするはずの美香は、義母の葬儀よりも友人とのハワイ旅行を選ぶ。吉郎は亡き妻に恥をかかせまいと、參列者には「體調不良」と噓をつき、靜かに頭を下げ続けた。 しかし葬儀の翌日、吉郎は決意する。 息子夫婦が住む一軒家は、吉郎が買い與えたもの。そして名義は、今も吉郎のままだった。 妻を軽んじた嫁に、吉郎が下した靜かなけじめとは――。人生逆転|親不孝|親子関係|修羅場1.1萬字5 72