"あなただけ辞めていいわけないでしょ" 第16話
末の残とすき焼き
翌の。桜の季節が過ぎ、緑が眩しい季節になっていた。
佐野の夕の卓には、カセットコンロのに置かれた季の入った鉄鍋から、甘辛い醤油とみりんの湯気がちっていた。
すき焼きだった。
ただし、並んでいる肉は黒毛牛ではない。スーパーのタイムセールで半額シールが貼られていた、オーストラリア産の牛肩ロースと、豚こま切れ肉のい盛りだ。その代わり、菜と焼き豆腐とえのき茸が、鍋から溢れんばかりに煮込まれていた。
「肉、もう煮えてるぞ」
私が菜箸で肉をつまみげると、学から帰ってきたばかりの翔太が、卵をといた鉢を差ししてきた。
「いただく! 今、学のあと図館のシフト入ってたから腹減ってにそうだったんだよ」
翔太は肉を頬張り、そうにハフハフと息を吐いた。
息子の顔つきは、この半ですっかり精悍になっていた。学の単位はつも落とさず、週のバイトをきっちりこなし、自分の携帯代と定期代を毎机のに置いていく。親に守られるだけの子供ではなく、このを角で支える頼もしい同居の顔だった。
「由美、おもべろ」
「はいはい。今、ご飯よそうから」
台所から戻ってきた由美は、しく切った髪を揺らしながら席についた。
支援センターの仕事は忙しいらしいが、顔は以よりずっといい。
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夜にうなされることもなくなり、週末には所の民農園でさな庭菜園を始めていた。
その、リビングのサイドボードに置いてあった私のスマートフォンが震えた。
画面を見ると、以の会社の同期で、現も産管理部で部を務めている松井の名が表示されていた。
私は席をち、通話ボタンを押してに当てた。
「もしもし、松井か。どうした?」
『佐野か! 久しぶりだな。元気でやってるか?』
受話器の向こうから、聞き慣れたの喧騒と、疲れた同期の笑い声が聞こえてきた。
『いやさ、今期のDXの捗会議が終わったところなんだが……相変わらずが無茶苦茶言ってきて現が爆発寸だよ。川井が辞めたあとも、若が続けて抜けちまってな。おがいなくなってから、本当に調役がいなくて現が回らん』
「そうか。変だな」
『なあ、佐野。……率直に聞くけどよ。お、辞めたこと、悔してないのか?』
松井の声に、微かな探るような響きが混ざっていた。
歳で企業の課を捨て、町の平社員になった男に対する、同と、わずかな羨望が入り混じった問いだった。
私はダイニングテーブルを振り返った。
鍋の湯気の向こうで、翔太が「母さん、豆腐取って」と言い、由美が「いから気をつけてよ」と笑いながら鉢を渡している。
私はスマホの送話に、静かにをづけた。
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「……めちゃくちゃ悔してるよ」
『えっ?』
「毎、に通帳記入するたびに血の気が引くよ。の半分以だからな。今夜のすき焼きだって、オーストラリア産の特売肉だ」
話の向こうで、松井が息を呑んだ。
私は笑い声を漏らしながら、言葉を続けた。
「でもな、松井」
『……なんだよ』
「俺、毎朝玄関で靴を履くとき、自分が今なんのためにをるのか、ちゃんと分かってるんだよ」
沈黙が流れた。
「誰かを騙すためでも、組織の嘘を取り繕うためでもない。ただ、今働いて、夜に族とい肉をうためだ。……それだけで、分きていけるんだよ」
受話器の向こうで、松井がさく「参ったな」と呟いた。
『……今度、い居酒で奢れよ。愚痴、聞いてくれ』
「ああ。百円のホッピーなら奢るよ」
通話を切り、スマホを置いた。
席に戻ると、由美が私の鉢に、たっぷりとの染みた焼き豆腐と菜を乗せて待っていた。
「誰から?」
「松井だ。『悔してないか』ってさ」
「で、なんて答えたの?」
由美が面そうに眉をげる。
「『末に通帳見るたびに泣きそうになる』って言っといた」
翔太が吹きし、由美が「ちょっと、それ本当じゃない」と声をげて笑った。
狭いリビングに、の笑い声が響き渡った。
の朝も、く起きなければならない。私は自転を漕いで段ボールへき、由美はバスに乗って支援センターへき、翔太は満員に乗って学へ向かう。
活はギリギリで、贅沢など微もない。
だが、この卓にはもう、誰かの犠牲のに胡をかいているはもいなかった。
私たちは、自分たちので選び取った現実を、自分たちので歩き始めている。
窓のには、静かでいの夜空が、どこまでもどこまでも広がっていた。