"7年目の地下貯蔵庫" 第3話
葵はエプロンの紐を結び直し、どんぶりを洗い始めました。湯気で曇った鏡をし、袖をしまくる。の音が狭い厨に響きます。
洗い終えたどんぶりを棚に戻し、を拭き、翌に使う漬物を容器に移し替える。いつもの作でした。
清子はそのに限って体調が優れず、閉に奥の部へ戻っていました。朝から顔が悪く、咳もしていました。
「葵ちゃん、ごめんね。今はし休ませてもらうわ」
「丈夫です。片付けは私がやっておきますから」
葵はそう言って、清子を奥へかせました。
主の満作は、厨の奥で釜の加減を見ていました。片にい柄杓を持ち、スープの表面を静かにすくっては、汁を取り除いていました。
息子の拓也は、ののベンチに座っていました。煙を吸っていたのか、指先にの赤い点が見えたというもいました。
夜の11頃でした。
の奥にあるさな商の主は、その、満作ラーメンの方から誰かの話し声が聞こえたと言いました。
何を話しているのかまでは分かりませんでした。
ただ、普段よりしきな声だったとだけ、になって証言しました。
けれど、そのにんでいるはくありませんでした。皆、朝がい町です。夜11を過ぎれば、ほとんどのは灯りを落としています。
広告
誰もその声をく気に留めませんでした。
それが、どれほど切な夜だったのか、誰もる由もありませんでした。
そして、その夜を境に、伊藤葵はどこにも姿を見せなくなりました。
最初の数は、誰も議にいませんでした。
葵の休みのなのだろう。
し体調を崩したのかもしれない。
そうっていたのです。
しかし3、4と過ぎても、葵はにてきませんでした。常連客たちも首をかしげ始めました。
「葵ちゃん、最見ないな」
「京へくとか言ってたから、先にていったのかね」
誰かが軽くそう言いました。
その言葉は、すぐにのに広がりました。
真っ先にを訪ねてきたのは、葵の母親の佳子でした。
娘と連絡が取れなくなってから5目のことでした。
当、葵はのひらほどのさな携帯話を使っていました。佳子が何度話をかけても、聞こえてくるのは「源が入っていない」という無質な音声だけでした。
佳子は胸が張り裂けそうでした。
葵は母親からの話にないなど、1もない子だったからです。
佳子はのをめに畳み、仙台まで目散に駆けつけました。満作ラーメンの扉をけると、内にはいつもの濃いスープの匂いが漂っていました。
けれど、そこに葵の姿はありませんでした。
「すみません。うちの葵、こちらに来ていませんか」
広告
佳子の声は震えていました。
女将の清子は、ためらうように目を伏せました。
「それが……葵ちゃんはあの、閉作業をしてから、そのまま来なくなって。私たちも連絡が取れなくて」
佳子の顔が青ざめました。
その、の奥から主の満作がてきました。無表のまま、ぶっきらぼうに言いました。
「あの子、京へくってずっと言ってたからな。何も言わずにっちまったんじゃないか。最の若いのは皆そうだよ」
そのそばにいた拓也も、さく頷きました。
「荷物をまとめる暇もなく突然ったらしい、って話も聞きましたよ。借がしあるという噂もあったし」
根拠のない言葉が、内にび交いました。
佳子は、その言葉をどうしても受け入れることができませんでした。
「うちの葵は、そんな子じゃありません。弟の学費をあんなに気にしている子が、どうして黙ってくんですか。あの子の荷物も通帳も、全部にそのままあるんですよ」
佳子の声は震え、目には涙が浮かんでいました。
しかし、たちの目はすでに方に傾いていました。
若い娘が都会へていっただけだろう。
そんなに珍しいことではない。
葵が以から京へきたいと言っていたことが、その考えを押ししていました。
数、佳子は警察署を訪れました。娘を探してほしいと、1枚の写真を差ししました。
髪をろで結び、しぎこちなく笑っている葵の証写真でした。
広告
おすすめ作品
-
完結第11話
蜂蜜先生の救命列車
10年間、国境なき医師団として世界中の命を救ってきた外科医・涼介。 しかし最愛の母を救えなかった後悔から、彼は白衣を脱ぎ、医師としての道を離れる決意をして故郷へ向かっていた。 大雨の夜、乗っていた最終列車が豪雨で緊急停止する。蒸し暑い車内に不安が広がる中、1人の女子高生が突然倒れ、意識を失ってしまう。 泣き叫ぶ母親。動揺する乗客たち。救急車もすぐには来られない状況で、涼介は静かに告げた。 「誰か、ハチミツを持っていませんか」 その一言をきっかけに、止まった列車の中で小さな奇跡が起こり始める。 過去を捨てようとしていた医師が、もう一度“救う意味”を取り戻していく、命と再生の物語。真相1.6萬字5 134 -
完結第12話
母を捨てた凍夜
1996年、兵庫県北部の山間にある小さな介護施設で、78歳の中村はる子が忽然と姿を消した。 家族のために働き続け、厳しい姑に仕え、息子の学費のために娘の人生まで犠牲にしてきたはる子。だが夫の死後、財産はすべて長男夫婦のものとなり、認知症が始まった彼女は、やがて山奥の施設へ送られる。 面会に来ない息子夫婦。滞納される施設費。寂しさの中で、はる子が待ち続けていたのは、たった一人、娘の由紀子だけだった。 そして12月15日の夜。 「娘さんが迎えに来ていますよ」 職員のその一言を信じ、はる子は真冬の闇の中へ歩き出す。 翌朝、彼女の姿は施設から消えていた。警察の捜索もむなしく、事件は未解決のまま時だけが過ぎていく。 しかし1年後、施設の古い倉庫から見つかった“白いもの”が、家族と職員たちが隠していた真実を暴き始める。 はる子は本当に自分で出て行ったのか。 そして、最後の夜に何が起きていたのか――。ミステリー|真実|行方不明|介護1.9萬字5 149 -
完結第13話
消えた退院前夜
1991年5月、静岡県の総合病院で、退院を3日後に控えた43歳の女性・田中道子が忽然と姿を消した。 手術は無事に終わり、回復も順調。財布も保険証も病室に残されたまま、彼女だけが夜の病院から消えていた。 最後に確認されたのは、消灯時間の午後9時。翌朝、看護師がカーテンを開けた時、そこに道子の姿はなかった。 自ら出て行ったのか。誰かに連れ去られたのか。それとも、病院の中で何かが起きていたのか。 家族は必死に行方を探し続けるが、手がかりは見つからないまま季節だけが過ぎていく。 そして8か月後、病院の監査で見つかった小さな異変が、すべてを変える。 消えた投薬記録。数の合わない睡眠導入剤。修正されたカルテ。 信じていた病院の奥で、道子に何が起きていたのか――。ミステリー|真相|行方不明1.9萬字5 330 -
完結第11話
消えた五輪候補
昭和59年、ロサンゼルスオリンピックの代表候補だった21歳の体操選手・高橋明子は、最終選考を目前に控えていた。 貧しい家庭に生まれ、父の期待を一身に背負い、痛む足首を隠しながら練習を続けていた明子。彼女にとってオリンピックは、自分だけの夢ではなく、家族の人生を変える最後の希望でもあった。 しかし、最終選考の日。 結果発表の直前、明子は訓練センターの中で忽然と姿を消す。ロッカーは空になり、荷物も見つからず、防犯カメラにも外へ出た姿は映っていなかった。 厳しすぎるコーチ、勝利を争うライバル、そして妹の成功を複雑な思いで見つめていた兄。 誰が明子を消したのか。なぜ、建物の中から出ていないはずの少女は見つからなかったのか。 1年後、改装工事中のロッカールームで、壁の奥に隠されていた“あるもの”が発見される。 その瞬間、父が待ち続けた1年と、明子が背負っていた夢の本当の悲劇が明らかになる――。ミステリー|行方不明1.6萬字5 161 -
完結第8話
排水路の腕時計
1998年10月、家族旅行の帰りに立ち寄った青日サービスエリアで、42歳の父・佐藤健一が突然姿を消した。 「ちょっとトイレに行ってくる」 そう言って席を立ったきり、健一は二度と家族の前に戻らなかった。車も財布も荷物も残されたまま。警察犬の臭いは、なぜかトイレの前で途切れていた。 防犯カメラの映像は、最も重要な25分間だけ欠落。目撃者もなく、手がかりもないまま、事件は未解決のまま年月だけが過ぎていく。 夫を待ち続ける妻。父の帰りを信じる子どもたち。だが15年後、サービスエリアの再開発工事中、排水路の奥から錆びた腕時計と革靴、そして泥にまみれた財布が見つかる。 そこに刻まれていたのは、失踪した父の名前だった。 あの日、トイレへ向かった健一に何が起きたのか。なぜ遺留品は排水路に隠されていたのか。 15年の沈黙を破って現れた証拠は、家族が待ち続けた真実の扉を、静かに開いていく――。ミステリー|真相|行方不明1.2萬字5 186