"崖下に残された声" 第2話
次の瞬、鈍い落音が肌にこだました。
崖のに残されたのは、彩佳1だけだった。
彼女は慎に崖の縁へづき、はるかに散らばる2つのを確認した。髪をゆっくりとかきげた顔には、恐怖も悔も浮かんでいなかった。
あるのは、成功したという確信だけだった。
彩佳はく息を吸い、ポケットから携帯話を取りした。119番を押し、呼びし音が鳴るいに、彼女は咳払いをして声をえた。
話がつながった瞬、彼女は獣のような鳴をげた。
「助けてください! が落ちました! 夫と姑が、写真を撮ろうとしてを滑らせて……く来てください!」
通報から20分、救助隊の先発隊が現に到着した。
彩佳は岩のに座り込み、焦点のわない目で虚空を見つめ、全を震わせていた。
救助隊が肩を揺さぶると、彩佳はようやくに返ったように顔をげた。
「夫が……母が……あのにいるんです。どうか助けてください」
彼女は救助隊員の背に負われながらも、優とよしえの名を呼び続けた。その泣き声は、救助隊員たちの胸を締めつけるほど切実に聞こえた。
だが、その涙の奥に隠された顔を見抜いた者は、そのまだ誰もいなかった。
同夜8、松本内の総病院で、落ち着きを取り戻した彩佳のもとへ警察官が訪れた。
刑事課と若刑事の伊藤健だった。
広告
彩佳は消毒薬の匂いが残るで顔を覆い、震える声で話し始めた。
「私が止めるべきだったんです。写真をもう1枚撮ろうなんて、私が言ったから……」
刑事課が慎に尋ねた。
「具体には何があったのですか」
彩佳は唇を噛みしめた。
「夫が、母の写真を1で撮ってあげると言ったんです。背景が綺麗に映るように、どんどんろにがっていって……私が危ないからやめてと叫んだのですが、夫がを滑らせて、母が助けようとして……2とも瞬でに」
彼女の供述は、現検証の報告と気なほど致していた。
岩には苔があり、ので滑りやすくなっていた。遺体の落位置も、1が滑り、もう1が巻き込まれた事故として説できるものだった。
翌1025、警察署で参考聴取を終えた彩佳は、待の子に座っていた。
伊藤刑事が自販売で買ったコーヒーを渡そうとしただった。
いたドアの隙から、彼は奇妙な景を見た。
彩佳が診断にかれた「発性傷」という文字を指でなぞった瞬、元がわずかにがったのだ。
それはしみではなかった。
何かをやり遂げた者の、堵に似た笑みだった。
伊藤は背筋が凍るのをじ、刑事課のもとへった。
「課、これは単なる滑落事故ではないかもしれません。今、渡辺彩佳が笑うのを見ました」
広告
しかし課は疲れた顔で首を振った。
「伊藤、徹夜続きで見違えたんじゃないのか。夫と姑が同じにんで笑う女がどこにいる。それに現の検証結果も見ただろう。殺の証拠はない」
伊藤は納得できなかった。
「爪ののDNAや、の繊維を調べるべきです。突きばしたなら、抵抗の痕跡が残っているはずです」
「現は救助隊で混乱している。今あの女は被害者の遺族だ。物証もなしに犯扱いすれば、権問題になる」
捜査はそこで止まった。
葬儀では、彩佳は事も取れず、何度も気を失い、世界で最も劇な未を演じた。親族も所の々もをそろえた。
「あんなに親孝な嫁はいませんよ」
「姑さんを病院へ連れてって、旦さんにも尽くしていたのに」
彼女の完璧な評判は、疑いの種を消す盾になった。
解剖結果も、転落による損傷以の所見はなし。薬物反応も性。
事件発から1週、警察は証拠分を理由に捜査を打ち切った。
結論は、劇な同滑落事故。
そして201812、総額8億円の保険が渡辺彩佳の座に振り込まれた。
その翌、彩佳はマンションを売り、携帯番号を変え、すべての縁を断ち切って姿を消した。
がけた20191の夜、交番勤務へ遷されていた伊藤は、自宅で事件現の写真を見返していた。
彼の目が、救助直の彩佳の全写真で止まった。
写真のの彩佳は岩に座り込んで泣いていた。その元には、いブランドスニーカーが写っていた。
広告
おすすめ作品
-
完結第10話
多摩川に沈んだ食堂
2001年、東京の外れにある古びた商店街で、小さな食堂を営んでいた脱北女性・李恩淑が突然姿を消した。 財布も通帳も店に残されたまま。厨房はいつも通りきれいに片づけられ、まるで翌日も店を開けるはずだったように見えた。けれど、彼女だけがどこにもいなかった。 町の人々に温かい食事を出し、孤独な老人たちの心の支えにもなっていたオンスク。だが、彼女の過去を知る者は少なく、警察の捜査もやがて「自ら姿を消したのではないか」という見方に傾いていく。 それから13年後。 多摩川の護岸工事中、土の中から錆びついた手下げ金庫が見つかる。中に入っていたのは、古い鍵と、李恩淑の名前が書かれた一冊の手帳だった。 手帳に何度も記されていた謎の文字「K」。 失踪前、彼女は何に怯えていたのか。なぜ町の人々は、ある男の存在を語ろうとしなかったのか。 13年間沈黙していた小さな商店街の記憶が、今、静かに動き出す。ミステリー|真実1.4萬字5 5 -
完結第6話
ハワイへ消えた母
「10年間、お疲れ様でした」 息子夫婦からそう告げられ、68歳の長沼クミは家を出るよう求められた。 孫の世話、家事、食事、掃除――結婚以来10年間、息子家族のために尽くしてきた日々。けれど、感謝の言葉はいつしか消え、最後に残ったのは“もう必要ない”という冷たい宣告だった。 しかし、クミは泣かなかった。 なぜなら彼女は、ずっと前からこの日が来ることを予感していたから。 翌朝、荷物はすでにまとめられていた。息子夫婦が呆然と見つめる中、クミは静かに家を去る。そして1ヶ月後、彼女は日本ではなく、青い海の広がるハワイにいた。 その頃、息子からの着信は90件。 だが、クミが再び振り返ることはなかった――。因果応報|人生逆転|ATM扱い|親子関係9.4千字5 3 -
完結第7話
5500億を動かした手
施設で育ち、ようやく銀行の正社員として初出勤の日を迎えた24歳の志宮リンカ。 しかし出勤途中、駅前で倒れていた一人の老人を見つけた彼女は、迷わず足を止める。救急車が来るまで手を握り続けた結果、初出勤にはわずか5分遅れてしまった。 待っていたのは、支店長からの冷たい一言だった。 「初日から遅刻か。即刻解雇だ」 事情を聞こうともせず、施設出身という経歴まで見下され、リンカはたった5分で夢を奪われる。けれど、支店長は知らなかった。 彼女が助けた“質素な老人”の正体を。 翌日、東銀行梅ヶ丘支店に現れたのは、5500億円を預ける大口顧客。その男が口にした一言で、支店長の顔色は一瞬にして青ざめる。 踏みにじられた善意は、本当に報われないのか。 これは、見返りを求めず手を差し伸べた新人行員が、たった一つの優しさで運命を大きく変えていく物語。人生逆転|金銭問題|修羅場1.0萬字5 102 -
完結第6話
犬吠埼に消えた三人
1994年元旦。初日の出を見に銚子・犬吠埼へ向かった50代の同級生3人が、旅館に荷物を残したまま忽然と姿を消した。財布も身分証も部屋に置かれ、携帯電話の信号は午前5時10分、3台同時に途絶えていた。 事故か、家出か、それとも事件か。 警察の捜査は難航し、事件は8年間、未解決のまま時が過ぎていく。だがある春の日、1人の同級生が警察署を訪れたことで、沈黙していた真実が動き出す。 初日の出の海で、彼女たちに何が起きたのか。 そして、夫が8年後に明かした“本当の罪”とは――。ミステリー|真実|真相8.6千字5 47 -
完結第6話
68歳、レジで再会した友
5年前、幸子は友人・道代に笑われた。 「まだ働いてるんだね」 「月1万円の積み立てなんて、やってないのと同じじゃない」 年金10万円でスーパーのレジに立つ幸子と、余裕のある老後を語っていた道代。あの日の小さな笑い声は、幸子の胸にずっと残り続けていた。 それから5年後。 68歳になった幸子のレジ前に、道代が突然現れる。手にしていたのは、半額の惣菜と安い食パンだけ。かつて自信に満ちていた彼女の手は、なぜか小さく震えていた。 そして道代が置き忘れたポイントカードの下には、たった一言だけ書かれた紙が挟まっていた。 「相談があります」 5年前に笑った人と、笑われた人。 同じ喫茶店で再び向き合った二人を待っていたのは、思いもよらない老後の現実だった――。人生逆転|第二の人生|金銭問題8.6千字5 306 -
完結第6話
雨の夜の招待状
還暦を過ぎた林義子は、夫の書類カバンから一枚の招待状を見つける。 そこに書かれていたのは、夫・正雄と別の女性の名前。そして、3ヶ月後に京都の高級宿で開かれる結婚式の案内だった。 36年間、夫の食事を作り、薬を管理し、家計を守り続けてきた義子。だが夫はその裏で、共有財産を移し、退職金2200万円を隠し、新しい女との生活まで準備していた。 義子は泣かなかった。怒鳴らなかった。 ただ静かに証拠を集め、弁護士にすべてを託す。 そして迎えた結婚式当日。80人の招待客が見守る会場に、花嫁ではなく、1人の弁護士が現れる。 その瞬間、夫が夢見た新しい人生は崩れ始めた――。人生逆転|不倫|熟年離婚9.2千字5 286 -
完結第6話
骨壷に眠る花嫁
結婚式の2日前、山田晴恵は突然姿を消した。 婚約者との口論、消えた財布、荒らされた形跡のない部屋。警察は彼女を「結婚を恐れて逃げた花嫁」と判断し、事件は自発的失踪として処理された。 家族は世間の冷たい視線に耐え、婚約者は“残された新郎”として同情を集めたまま、時間だけが過ぎていく。 しかし6年後、群馬県の国道18号線沿いで排水設備の交換工事中、コンクリート製の雨水桝から異様な包みが見つかる。 中にあったのは、人間の頭部。 歯科記録の照合により、それは6年前に消えた晴恵のものだと判明した。 彼女は逃げたのではなかった。 では、誰が彼女を殺し、なぜ道路脇のコンクリートの中に隠したのか。 “逃亡した花嫁”という嘘が崩れた時、婚約者が守り続けた6年間の沈黙が、静かにほころび始める――。ミステリー|夫婦|真実|真相9.1千字5 266