みかん小説
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"父親になりたくないなんて、一度も言ってない" 第16話

私たちは、売却することを選んだ。

産仲介の担当者を呼び、登記事項証を広げ、査定額の提示を受けた。 幸い、横浜駅から徒歩圏内というが幸いし、築数の割に買いはすぐに見つかりそうだった。 売りし価格を決め、媒介契約に署名と捺印をする。 朱肉の匂いが、リビングにく漂った。

休のたびに、内覧の希望者がやってきた。 幼い子どもを抱っこした若い夫婦や、これから結婚するというカップル。 彼らがリビングの広さに嘆の声をげ、側の点畳の部を覗き込んで「ここ、ちょうどいい子ども部になりますね」と微笑みうたび、私と夫は壁際で静かに線を交わした。

かつて私たちが見た未来を、見らぬ誰かがそのまま引き継いでいく。 皮肉なものだといながらも、どこかでホッとしている自分もいた。 あの部は、ようやく本来の役割を与えてくれるに会えたのだ。

契約が決まり、引き渡しの程が決まった。 売却代でローンの残債を括完済し、残ったわずかな元資は、の負担割に応じて正確に折半することになった。 の応接で、司法士のち会いのもと、何枚もの類に署名し、実印を押す。 抵当権抹消の続きが完した瞬、私たちを縛り続けていた最の経済鎖が、音をてて消滅した。

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そして、荷物の運びしが終わった、の終わりの曜。

私は、最のがらんどうになったマンションを訪れていた。 産に鍵を返却するの、最の確認だった。

具がすべて運びされたリビングは、驚くほど広かった。 フローリングに残る、ソファの脚の跡。 壁の、焼けの跡。 の活の痕跡だけが、埃っぽい空気のに刻まれていた。

廊を歩き、側の点畳の部のドアをけた。

窓から、午の柔らかい差しが差し込んでいる。 段ボールのも、私の古い本も、夫のキャンプ具も、もう何もない。 ただの、角い点畳の空。

あの、夫が鉛で『子ども部』とき込んだ取り図。 私が『斎にしたい』と主張して、結局デスクを置けなかった部。

この部は、、ずっと宙に浮いていた。 の異なる願いがぶつかりい、どちらのにも染まることができないまま、ただ息を潜めていた所。

「……ごめんね」

誰もいない部の壁に向かって、さく呟いた。 部に罪はなかった。 ただ、私たちが互いのを背負わせようとして、持て余してしまっただけだった。

「奈美」

背から声がして、振り返った。 夫が、最の私物を入れたさな袋を持ってっていた。

「産さん、に来たよ。あと分くらいでがるって」

「うん。……悠介、これ」

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私はポケットから、枚の用を取りした。 区役所で貰ってきた、緑の枠線の類。 私の欄には、すでに署名と捺印が済んでいた。

夫はそれを受け取り、無言で見つめた。 それから、持っていたビジネスバッグからペンを取りすと、キッチンのカウンターにを置き、迷いのない跡で自分の名をき入れた。

『藤原 悠介』

、私の苗字でもあった文字。 夫が印鑑ケースから認印を取りし、朱肉をつけてに押し当てる。 トントン、と乾いた音が静かな部に響いた。

「これ、曜に俺がしておくな。奈美は仕事だろ」

「ありがとう。……助かる」

類をカバンに仕い、夫はぐるりと部を見渡した。 空っぽの壁。剥きしの。

「……何にもないな」 夫がぽつりと言った。

「うん。何にもなくなっちゃったね」

「でもさ」 夫は振り返り、あのシチューの夜以来、初めて見るような、穏やかで澄んだ笑顔を浮かべた。

「いいだったよ。ここで奈美と暮らせて、本当によかった」

胸の奥がくなり、界が歪んだ。 み言のつも言わず、すべてを失った部ので、夫はただ謝だけをにしていた。

「……ねえ、悠介」

「ん?」

「悠介はさ、これから……また、誰かと結婚する?」

ずっと、聞きたかったことだった。 聞いてはいけないと分かっていたけれど、最にどうしても確かめたかった。

夫はし驚いたように目を瞬かせ、それから窓のの空を見げた。

「どうだろうな。今はまだ、そんなこと考えられないよ」 夫は苦笑いした。

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