みかん小説
本棚

"父親になりたくないなんて、一度も言ってない" 第9話

けれど、夫の返答は、私の淡い期待を無残に打ち砕いた。

「いや、いいよ」 夫は穏やかに、けれど確に首を横に振った。

「無理して仕事詰め込まなくていいって。奈美、最忙しそうだったし、連休はでゆっくり休みなよ」

「無理なんてしてないよ。きたいから言ってるの」 「奈美が気を遣う必はないんだよ」

夫の調は優しかった。 私を労わる完璧な夫の態度だった。 でも、その優しさは、私を自分の領域から締めすための、分いガラスの壁だった。

『入ってこないでくれ』と、そう言われているのが痛いほど分かった。

「……悠介」 ちがり、ダイニングテーブルの向かい側の子を引いた。 膝が微かに震えていた。

「本当の理由を言って」

夫はカメラをケースにしまうを止め、静かに私を見つめ返した。

「本当の理由って?」 「になりたい理由よ。今まで、で旅なんてったことなかったじゃない。どうして今なの? どうして、私を置いていくの?」

責めるつもりはないのに、声が震え、刺々しい響きを帯びてしまう。 怯えていたのだ。 夫が私のの届かない所へ、しずつ、確実にれていこうとしている現実に。

「置いていくなんて、げさだな」 夫は困ったように眉をげて笑った。 その作り笑いが、たまらなく怖かった。

「ただの泊の旅だよ。リフレッシュしたくなっただけだ」

広告

「嘘ばっかり」 テーブルのに置かれた夫のを、掴みそうになっていとどまった。 触れたら、そのたさに耐えられない気がした。

「私と緒にいたくないんでしょ? にいると、息が詰まるんでしょ? ……もう、私とで暮らしていくのが嫌になったんじゃないの?」

言ってはいけない言葉だと分かっていた。 相を追い詰めるだけの、最悪の問いかけ。 でも、からびしてしまったを、もう止めることはできなかった。

夫の顔から、笑みが完全に消えた。

部のの空気が、凍りつくようにえていく。 換気扇の回る微かな音だけが、元でやけにきく響いた。 夫は線を伏せ、テーブルのの目を指先でゆっくりとなぞった。

い、息の詰まるような沈黙。 その沈黙のさが、夫ののに渦巻く迷いとさを物語っていた。

やがて、夫はく息を吸い込み、顔をげた。 その瞳は、逃げることをやめたの、痛々しいほど真っ直ぐなを宿していた。

「……し、が欲しいんだ」

絞りすような声だった。

「悠介……?」

「これからのについて、でちゃんと考えたい」 夫の言葉は、静かに、けれど決定なみを持ってリビングに落ちた。

「奈美と緒にいると、どうしても甘えがる。おの顔を窺って、おを傷つけない答えを探して、自分の気持ちに蓋をしてしまう。

広告

……でも、それじゃ駄目なんだよ」

「どうして……? 私たちは、でやっていくって決めたじゃない」

「決めたよ。ではな」 夫は自嘲気に元を歪めた。

「でも、が付いていかないんだ。で子どもを見かけるたびに、友だちのにくたびに、俺のにいるけない自分が騒ぎすんだよ。『どうして俺は父親になれないんだ』って。そんな醜いを抱えたまま奈美と顔をわせていたら、いつか本当におをんでしまいそうで……それが怖いんだ」

夫の目元が、赤く滲んでいた。

「俺は、奈美を嫌いになりたくない。おを憎みたくないんだよ。だから……になって、自分が本当に望んでいるものが何なのか、この先どうきていくべきなのか、ちゃんと見極めたいんだ」

臓が、底のない穴へ落ちていくような覚がした。

夫は私を責めていなかった。 ってもいなかった。 ただ、私をしているからこそ、私を憎んでしまう未来を恐れ、でち止まろうとしていた。

、私はずっと怯えていた。 いつか夫に無理やり子どもを産まされるのではないか。 私のを奪われるのではないか。 そうやって、被害者の殻に閉じこもって、夫を警戒し続けてきた。

けれど、本当に壊れかけていたのは、夫のほうだったのだ。 私を尊するという選択のみに押し潰され、夫は今、私の目ので窒息しかけていた。

「……分かった」 声が、震えて途切れた。

「ってきなよ。野」

それ以、何も言えなかった。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: