"父親になりたくないなんて、一度も言ってない" 第1話
「奈美、もうだけで暮らしていこう」
湯気をてるシチューの皿をテーブルに置きながら、夫はそう言った。 曜の、夜。 換気扇のい回転音だけが響くリビングで、私のは真っになった。
「え……?」 「子どもは諦める。これからはだけの未来を考えよう」
夫の顔をまじまじと見つめた。 冗談を言っているようには見えない。 穏やかで、どこか自分を納得させたような、静かな目だった。
胸の奥から、いものが気にこみげてきた。 信じられなかった。 、ずっと待ち望んでいた言葉だった。
歳で結婚した。 私は付きっている頃から、子どもを産むつもりはないと伝えていた。 自分の仕事が好きだったし、誰かの母親になる責任を背負う自信がなかった。 何より、夫とで過ごす自由なが好きだった。
あの、夫は笑って「奈美の考えを尊するよ」と言ってくれた。 でも、入籍して代を迎えた頃から、空気は変わった。 友に子どもがまれるたび、正やお盆に夫の実へ帰るたび、夫は私に尋ねるようになった。
「本当に、子どもはいらないの?」 「度、ちゃんと考え直してみないか」
そのたびに話しいになり、最には決まって言い争いになった。 「私のを何だとってるの」と責める私と、「俺のはどうなるんだ」と唇を噛みしめる夫。
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リビングのドアが乱暴に閉められ、背を向けって眠る夜が、こので何度あっただろう。
それが、終わった。 夫が、受け入れてくれたのだ。
「……本当に、いいの?」 声が震えていた。 夫はさく頷き、私のにそっとを置いた。
「もう奈美を責めたくない。で楽しくきていく方法を、探そう」
その夜、私は夫の胸に顔を埋めて、子どものように泣いた。 夫のシャツが私の涙でぐっしょり濡れるまで、背を優しく撫でてくれた。 の圧から、ようやく解放されたのだと信じて疑わなかった。
翌週の曜、私は嬉しくて、スマートフォンの画面を夫に見せた。 「ねえ、末ににかない? ずっときたがってた、樽の温泉旅館。予約取れそうなんだけど」
以の夫なら、「いいね、美い寿司も調べよう」とを乗りしてきたはずだった。 旅の計画をてるのが、夫の番の趣だったから。
けれど、夫はスマホの画面にちらりと目をやっただけで、マグカップを持ったままさく微笑んだ。 「いいね。奈美がきたいなら、予約していいよ」
それだけだった。 声に何の抑揚もなかった。
「……悠介は、きたくない?」 「ううん、きたいよ。奈美の好きなプランにして」
違は、そこから始まった。
夫はっていなかった。 嫌が悪いわけでも、私にたく当たるわけでもない。
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洗濯物を取り込み、お呂を掃除し、私が仕事で遅くなると連絡すれば夕飯を作って待っていてくれる。 完璧な、優しい夫のままだった。
けれど、何かが決定に欠落していた。
これまでは毎晩のように話していた「に買い替えたい」の話をしなくなった。 「定になったらの見える町にみたいね」というのない雑談も、ピタリと止まった。 夫のから、「未来」に関する言葉が綺麗さっぱり消え失せていた。
まるで、今とをやり過ごすことだけに専しているような、気な平穏だった。
週、私はい切って提案してみた。 「ねえ、あの部のことなんだけど」
平米の、LDK。 横浜の駅から徒歩分のこの古マンションをに買った、私たちは側の点畳の部の使いを決めていなかった。 夫は内見の、「いつか子どもができたら子ども部だな」と笑っていた。 私はずっと、スーツケースや季節れのを押し込む納戸として使っていた。
「あの部、片付けて私の斎にしてもいいかな。宅勤務も増えたし、デスクを置きたくて」
夫は文庫本から線をげ、しだけを置いて答えた。 「うん。奈美が決めていいよ」
「……悠介の荷物も結構あるけど、勝にかしても丈夫?」 「俺の物は全部捨ててくれて構わないから。
好きに使って」
喉の奥が、ぎゅっと締めつけられるような覚がした。 「好きに使って」という言葉が、「俺には関係ない所だから」