みかん小説
本棚

"偽装結婚と消えた二十四の図面" 第4話

『互いの過については、切詮索しないこと』 俺はその文字を睨みつけるようにして、自分の名を力くき込んだ。

初旬、俺たちは区役所の夜窓に婚姻届を提した。 証欄には、弁護士と赤親方の署名があった。赤さんは借りてきたような物のスーツを着て、俺たちよりも緊張した面持ちでっていた。窓の係員が無質に「おめでとうございます」と告げた。 「ありがとうございます」 冴子は取引先からの話に応じるような、完璧なビジネスボイスでをげた。 指輪の交換もなければ、記写真枚撮ることもなかった。区役所の自ドアをると、え切った夜が頬を打った。冴子はを向いたまま、淡に言った。

「今夜、荷物を運んで。鍵は階の管理に預けてあるから」

こうして俺は、自分を破滅させた元司の『夫』になった。

指定された所を訪れた、俺は自分の目を疑った。 宅メーカーの社令嬢であり、役員待遇の部職にある女だ。駅のタワーマンションの最階にでもんでいるものとい込んでいた。 だが、そこに佇んでいたのは、築をゆうに超えた、壁のあちこちにひびが入った階建ての賃貸マンションだった。 錆びついたエレベーターは、老の溜息のようない軋み音をてて鈍に昇した。

広告

最階の突き当たり、〇号のドアノブを回す。

を踏み入れた内は、驚くほど殺景だった。 広いリビングには、簡素な製のダイニングテーブルとパイプ子が脚あるだけ。元には、井くまで積みげられた段ボール箱と、背表にラベルの貼られた類ファイルが幾にも並んでいた。活など微もない。まるで夜逃げの途か、ち退きの事務所のようだった。

ただつ、暗いリビングの壁に、枚だけ額装された絵が飾られていた。 柔らかな鉛のタッチで描かれた、古い平の宅のスケッチだった。い軒を持つきな縁側があり、庭の片隅には本の柿のが枝を伸ばしている。描かれた線にはわずかな迷いがあるものの、柱の太さや桁の架け渡しの位置は狂いなく正確だった。の棟梁のによって描かれたものだと、目で分かった。

「祖父が描いたのよ」

背から、静かな声がした。いつのにか帰宅していた冴子が、トレンチコートを脱ぎながらっていた。

「あなたの部は玄関を入って側。私は側のを使うわ。蔵庫にはミネラルウォーターくらいしか入っていないから、好きに使って。私は連帰りが遅いから、事も事も気にする必はないわ」

冴子はそれだけをで告げると、自分の部へとに消えようとした。

広告

だが、の引き戸を閉めようとした瞬、建具の建付けが狂っているのか、途でガタリと引っかかって止まった。冴子は眉をひそめ、力任せに戸を引いてピシャリと音をてて閉めた。

その夜、俺は固い物の敷布団ので、なかなか眠りに就くことができなかった。 い壁の向こうから、キーボードを叩く規則な音が延々と響いていた。計の針がを回り、を過ぎても、乾いた打鍵音は途切れることがなかった。ようやく静寂が訪れたのは、の空がみ始めた午過ぎだった。 この女は、体何と戦っているのだろうか。暗ので井を見つめながら、俺は胸のざわめきを拭えなかった。

翌朝、顔を洗うために台所へ向かった俺は、わず息を呑んだ。 冴子がダイニングテーブルに突っ伏したまま、く眠り込んでいたのだ。 かれたノートパソコンの脇には、半分だけ残ってえ切ったインスタントコーヒーのマグカップ。彼女は数冊の分いファイルを枕の代わりにしていた。 会社にいた頃、誰に対しても分の隙も見せなかった鉄の女の、初めて見る無防備な寝顔だった。目のには濃い隈が張り付いている。

俺が部から毛布を持ってきてそっと肩にかけると、冴子は弾かれたように目を覚ました。 「っ……!」 彼女が真っ先に取ったは、自分の枕元にあったファイルを抱え込むようにして胸元へ引き寄せることだった。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: