"5年ぶりに帰宅した夫と、もう父親を必要としない家族" 第1話
油のねる音と、キャベツを千切りにする乾いた音だけが台所に響いていた。
換気扇がく唸るなか、きつねに揚がった豚ロースを網のに引きげる。 夫の好物だった。 、阪へ単赴任していた夫が、ようやく京へ戻ってくる。
「お父さん、幹線の通りなら、もう駅に着いてるよね」
リビングのローテーブルで模試の過問を解いていた娘の音(かのん)が、シャーペンを置いて顔をげた。 。制のカーディガンの袖はしほつれていて、目のにはうっすらと青い隈がある。 推薦ではなく、般選抜で教育学部を目指すと決めてから、娘は休のすべてを机ので過ごしていた。
「そうね。には着くって言ってたから」
私はエプロンで濡れたを拭き、皿にカツを盛り付けた。 テーブルには、夫の好きだったポテトサラダと、汁を引いて作ったなめこと豆腐の噌汁。 ビールも蔵庫の番える所でやしてある。
玄関の鍵がガチャリとい音をてて回ったのは、計の針が分を指しただった。
「ただいま」
靴を脱ぐ音。スーツケースのキャスターがフローリングを軋ませる音。 というは、像していたよりもずっと容赦なく、夫の横顔に刻まれていた。 髪が目ち、腹回りはし緩み、どこか方都のビジネスホテル特の、湿った煙の匂いが染み付いている。
広告
「お帰りなさい、正弘さん。お疲れ様でした」
「ああ。……なんだ、音もいたのか。予備はどうしたんだ」
夫は着を脱ぎ散らかしながら、リビングのソファにく腰を沈めた。 労いの言葉を待っていたわけではない。けれど、留守を守り続けたに対する最初の言葉がそれなのかと、胸の奥がチクリと痛んだ。
「お父さんが帰ってくるから、今はめにがってきたの」
音が控えめに笑う。、まだ学だった頃の無邪気な甘え方は、もうそこにはなかった。 どこかに接するような、礼儀正しく、けれど定の距を保った声。 夫はその違に気づく様子もなく、ネクタイを緩めてテーブルののビールにを伸ばした。
「やっぱりの飯はいいな。向こうの定は付けが濃くて敵わんかった」
サクサクとカツを噛み砕く音。 ビールを喉に流し込む音。 私は夫の正面に座り、減っていくグラスに目を配りながら、のない世話を振った。 京のは阪より寒いこと。所のスーパーが改装されたこと。義理の母の法が無事に終わったこと。
夫は「ふうん」「そうか」とく相槌を打つだけで、こちらの話を拾おうとはしない。 そして、本目の缶ビールのプルトップを引き抜いた瞬、着の内ポケットからつ折りにされた枚の類を取りした。
広告
バサリ、と油の匂いが残る卓にそれが置かれる。
「これ、目を通しておいてくれ。来のには向こうに入りたいからな」
類の最部には、太いゴシック体で印刷された文字があった。
『辞令 名古支社営業第課 課職を命ず』
私の考が、数秒完全に止した。 目のにある文字のが、うまく脳に届かない。
「……え? 名古? 正弘さん、京本社に戻るって……」
「ああ、その話か」
夫はカツにソースをドバドバと回しかけながら、何でもないことのように言った。
「本社に戻る枠もあったんだがな。それだと平社員のままで、席も窓際寄りになる。名古の営業課なら、当もつくし、次の部昇格への最ルートだ。だから、俺から希望をした」
喉の奥が、急速にカラカラに渇いていくのが分かった。 臓が、肋骨の内側を規則に叩き始める。
「自分から……希望をしたの? どうして、そのことを言も相談してくれなかったの」
「相談って、何を相談するんだよ」
夫は箸を止め、底議そうに眉をひそめた。
「俺が昇して料ががれば、族全員にとってプラスだろうが。来には赴任しなきゃならん。だから、おたちも緒に名古へ引っ越すぞ」
当然の決定事項として、夫のからその言葉が放たれた。 まるで、の気を告げるような軽さだった。
静寂が、リビングの空気を氷のように張り詰めさせた。