"「前のパパをこっそり好きじゃダメなの?」" 第1話
画用の端が、く毛羽って今にも破けそうだった。
擦りすぎた消しゴムの摩擦で、の繊維が細かく剥がれ落ちている。 うっすらと残った鉛の圧。 そこには、の男のと、さなを差し伸べた輪郭が、霊のように浮き彫りになっていた。
「陽太、ここ……最初、だれを描いたの?」
曜の夕方。 ランドセルを膝のに抱え込んだまま、きひとつしない歳の孫に、私はそっと声をかけた。
いつもなら、玄関の引き戸をけたたましくけて、「ばあば、お腹すいた!」とび込んでくるはずのだった。 けれど今の陽太は、靴を揃える音すらさせず、リビングの片隅にさく固まっていた。
皿に載せたうさぎ型のリンゴには、度もが伸びていない。 切りが、乾いた空気のでしずつ茶く濁り始めている。
陽太は顔をげなかった。 ただ、指先でその毛羽ったの傷を、何度も、何度もなぞっている。
「……まえの、パパ」
消え入りそうな声だった。 喉の奥にでも詰まっているかのような、掠れた響き。
「のパパ?」
「うん。……でも、ママが言ったの」
陽太はぎゅっと唇を噛み締めた。 さなが、くなった鉛を握り直す。
「これからは、しい族になるんだからねって。まえのパパを描いたら、修おじさんがしむよって」
臓のあたりが、たいに浸されたようにえた。
広告
テーブルのに広げられた画用には、黄い角根の。 そのに、笑顔の娘と、スーツを着た宮本修さん、そして陽太が並んでいる。 学の図の、「わたしの族」というテーマで描かれた絵。
先のはなまるがついたその絵の片隅で。 陽太の父親は、激しい力で擦り消されていた。
「ぼくね、修おじさんのこと、好きだよ」
陽太が、すがるような目で私を見げた。 泣いてはいなかった。ってもいなかった。 ただ、の顔を伺う、ひどく怯えた瞳だった。
「修おじさん、の本も買ってくれるし、も撫でてくれる。……でもね、ばあば」
あの子は、膝のの画用をさく丸めるようにして、私の元に顔を寄せた。
「ぼく、のパパのこと……こっそり好きでいたら、ダメなのかな?」
胸の奥を、鈍器で殴られたような衝撃だった。
違うよ、と。 そんなことないよと抱きしめてやりたかった。 けれど、私のからは、乾いた息しかてこなかった。
歳の子どもが。 好きな母親の笑顔を守るために。 自分のにあった分の記憶を、必に消しゴムで削り落としている。
その事実のさに、私はただ圧倒されていた。
午を回った頃、玄関のチャイムが鳴った。
「お母さん、ごめん!残業になっちゃって」
駆け込んできた美咲は、息を切らしながらトレンチコートを脱いだ。
広告
化粧の崩れた顔には、らかな疲労と、それ以に「充実」が張り付いていた。
には、デパの名ベーカリーの提げ袋。 以の美咲なら、絶対に買わなかったような級なパンの匂いが、玄関に漂う。
「陽太、いい子にしてた?修さんがね、の朝ごはんにって、美しいクロワッサン持たせてくれたのよ」
娘はリビングのドアをけるなり、るい声を作った。 陽太はすでに、居の隅に敷いたさな布団に入り、背を丸めていた。 規則正しい寝息が聞こえてくる。
私は台所で緑茶を淹れ、美咲のに湯みを置いた。
「美咲。……これ」
湯呑みの横に、つ折りにされていたあの画用を滑らせた。
美咲は怪訝そうに眉を寄せ、をいた。 そして、端のく剥げた部分に目を留めた瞬、その表がピシリと凍りついた。
「……陽太が、これ見せたの?」
「学で描いたそうよ。ここ、誰を描いたか聞いたわ」
娘の細い指が、画用の端をく握りしめる。 爪がくなるほどに。
「何よ。母さん、私を責めたいわけ?」
「責めてなんかない。ただ、陽太が言ってたのよ。のパパを描いたら、修さんがしむから消したって」
「当たりじゃない!」
美咲の声が、自然にねがった。 寝息をてている陽太の布団をちらりと見て、慌てて声を落とす。 けれど、その瞳の奥には、鋭利な苛ちが渦巻いていた。
「これからはできていくのよ。修さんは初婚なの。それなのに、子持ちの私を受け入れてくれて、陽太の父親になる覚悟まで決めてくれたのよ?」