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"朝四時の弁当を捨てた夫が、五分後にすがりつく理由" 第16話

そのには、自社のロゴが入ったっぽい袋が握られていた。

「正彦さん。お疲れ様でした」

私の声は、の参加者に向けたものと全く同じ、当たり障りのない会釈のトーンだった。

正彦は気まずそうに目を泳がせ、私の肩にあるの保バッグに線を落とした。

「……それ、しいメニューのサンプルか?」

「ええ。来からしく契約する、内のリハビリ施設向けの試作です。 咀嚼力が落ちた方でも噛み切れるように、温調理で繊維を柔らかくした豚の角煮です」

「……そうか」

正彦の喉が、ゴクリといた。 かつて自分が「貧乏くさい」と蹴にし、ゴミ箱へ叩き落とした、妻の料理。 今では、くの企業や施設が正規の報酬を支払って買い求める、価値ある「商品」となったもの。

夫は恐る恐る、懇願するような、ひどく惨めな笑みを浮かべてをいた。

「……あのさ。だけでいいんだ。 今のお昼、まだべてなくて……。 見、させてくれないか。昔みたいに……ちょっとでいいから」

震える声。 それは、失って初めて気づいた「当たりの温もり」に、惨めに縋り付こうとする男の、最の悪あがきだった。

私は保バッグのファスナーにそっとを添え、微笑んだ。 りも、嘲笑も、蔑みも交えない。 ただ、徹底なビジネスの距を保った、完璧な笑顔だった。

「申し訳ありません、林社」

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正彦の肩が、ピクリとねた。

「こちらは、クライアント企業様へ正式に納品する試作サンプルでございます。 弊社のレシピをご試、または監修をご希望でしたら、 弊所の窓より、正規の続きでご予約とお見積もりの申請をお願いいたします」

「……あ」

正彦のから、掠れた吐息が漏れた。

かつては、指先つかせば、当たりのように目のに差しされていた湯気のつ弁当。 朝に起きて、文句つ言わずに自分の胃袋を満たしてくれていた妻。

そのすべてが、もう度と、タダではに入らないい世界の彼方へってしまったことを。 男は今、完璧な敬語の壁を突きつけられて、ようやくの底から理解したのだ。

正彦の顔に、力のない、引きつった苦笑が浮かんだ。 何も言い返せず、ただ項垂れて、ゆっくりとずさりしていく。

私は軽く礼し、踵を返した。

商会議所のガラス張りの自ドアを抜けると、どこまでもく澄み切った、の青空が広がっていた。

肩にかけた保バッグの、ずっしりとしたみ。 それはもう、私を庭という名の檻に縛り付けるではない。 私の両で、この広い世界を歩いていくための、誇りき糧だった。

。 私は夫のぶ顔が見たくて、で台所にっていた。

今も、私は料理を作るのが好きだ。

誰かの健康をい、誰かの笑顔を願って、調料の配を考えるは、私にとってかけがえのないびだ。

けれど、私はもうっている。

誰かのために料理を作るのが「好き」だということと、 誰かのために料理を作ら「なければならない」ということは、 全く別のものなのだと。

が、私の頬を優しく撫でて通り抜けていく。

私のにはただ、自分の選んだが、真っ直ぐにに向かって伸びていた。

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