"朝四時の弁当を捨てた夫が、五分後にすがりつく理由" 第7話
そして、塩麹を焦がさないための、塗布のタイミング。
それを言伝えれば、森田さんの腕なら、分で完璧な照り焼きを作りげただろう。
喉の奥までかかった言葉を、私は奥歯を噛み締めてみ込んだ。
「……森田さん」
『はい』
「申し訳ありません。私からは、何も教えられません」
受話器の向こうが、シンと静まり返った。
「私は今朝、正彦さんに正式な業務委託契約を渡しました。 発費を支払い、私を部の協力者として認めてほしいとお願いしました。 でも、正彦さんはその類をに叩きつけました」
私は震える指で、スマートフォンのコードをぎゅっと握りしめた。
「森田さんを困らせたいわけじゃないんです。 でも、私がここで善で答えてしまったら……私は、あのの都のいい『無料の具』のままなんです」
い沈黙が流れた。 厨のけたたましい排気音だけが、受話器越しに響いている。
やがて、森田さんのく、い声が返ってきた。
『……分かりました。 無理を言って申し訳ありませんでした、奥さん』
「森田さん……」
『いや、いいんです。々、そうだとっていました。 社はいつも「俺が考えた」と威張っていましたが、厨に回ってくるレシピのメモは、いつも奥さんの丁寧な字でしたから。 現のなら、誰が本当に汗をかいていたかなんて、見れば分かりますよ』
森田さんはさく苦笑し、静かに言葉を継いだ。
広告
『筋を通そうとなさっている奥さんを、邪魔するわけにはいきません。 こっちはこっちで、プロのでなんとか形にしてみます。……失礼します』
通話が切れた。
ツーツーという子音を聞きながら、私は胸のあたりをく押さえた。 胸が痛かった。 森田さんのような誠実なを巻き込んでいることへの罪悪が、チリチリとを苛む。
けれど、戻りはできない。 ここでに流されれば、待っているのは以と同じ、あの窒息しそうな台所だけだ。
私は呼吸をし、鏡のへ向かった。 髪をえ、くを引く。
午。 私には、くべき所があった。
駅のカルチャーセンター。 その階にある調理実習から、汁のふくよかなりが漂っていた。
「美代子さん! 来てくれたのね、本当に助かるわ!」
迎えてくれたのは、料理研究の田子さんだった。 私より歳で、以、私が趣で通っていた発酵料理のワークショップでりって以来、私の付けの腕をく評価してくれていただ。
「急に助講(アシスタント)の先が倒れちゃって、今からの講座、どうしようかとってたのよ。 美代子さんの『コストで作る減塩庭料理』のアイデア、徒さんたちにぜひ見せてあげて」
「私でお役にてるなら……精杯やらせていただきます」
エプロンをにつけると、議と背筋が伸びた。
広告
の台所で締めていた、油染みのついたエプロンではない。 今朝、自分でアイロンをかけた、真っなリネンのエプロンだった。
集まった徒は、代から代の女性や、定退職を迎えた男性など、ほど。 講座のテーマは、『シニア・単者のための、作り置き減塩弁当』。
私は調理台のにち、徒たちの線をに浴びながら包丁を握った。
「皆さん、減塩というと『がくて気ない』とわれがちですが、 塩分を減らす代わりに、姜の搾り汁と、昆布の表面をさっと拭いた汁の旨を肉の繊維に吸わせることで、 塩分濃度をパーセント以に抑えても、めたにしっかりとした満が残ります」
鶏肉に細かく隠し包丁を入れ、を揉み込んでいく。 加減のコツ。 めても油がく固まらないための、焼きがりの油切りの角度。
私が何気なく伝えた夫に、徒たちがにペンをらせる。
「へえーっ! お肉に本酒を揉み込むタイミングって、そこなんですね!」 「先、このタレ、お醤油がいつもの半分なのにすごくりがってます!」
――先。
その言葉がに届くたび、喉の奥がツンとくなった。
ここでは、誰も私を鳴らない。 「飯はまだか」「貧乏くさい」となじる声もない。 私の積みねてきたさな夫を、々が目を輝かせて受け取り、「ありがとう」
と笑いかけてくれる。