"鍵をかけた部屋で、誰かがシャワーを浴びている" 第21話
「紗織……あんた、昔からそうだったよね」 ドアの向こうへ消える寸、彼女はボソリと呟いた。 「いつも正しくて、綺麗で、隙がなくて……だから、し分けてもらったって、いいとったのに」
鉄のドアが、ガチャンとい音をてて閉まった。
面会に残された私は、膝から崩れ落ち、に両をついた。 涙すらなかった。 ただ、自分の体の皮膚という皮膚が、の汚れた指先で撫で回されたような、耐え難い嫌悪だけが全を苛んでいた。
すべてが終わったのは、それからヶのことだった。
田島は傷害罪および証拠隠滅教唆の罪で起訴され、実刑判決を受ける見通しとなった。 宮澤由佳も、証拠隠滅罪および居侵入罪で起訴された。初犯であり、田島からのい働きかけがあったことが状酌量される能性はあるものの、執猶予付きの罪判決は免れないだろうと佐伯刑事から聞かされた。
私のマンションの部は、法には何の瑕疵もない物件として扱われた。 殺事件が起きたわけではない。者がたわけでもない。ただ、が無断で侵入し、の血のついた類をに保管していたというだけだ。 賃貸契約の解除理由としては自己都扱いになり、違約と原状回復費用をわせて万円い額を支払わなければならなかった。
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それでも、私は刻もくあの部をたかった。
退の、引っ越し業者がすべての具を運びしたあとの、ガランとしたLDKの部にでった。 畳の匂いも、壁のさも、み慣れたはずの部の景は、何つ変わっていなかった。
だが、私には見えていた。 フローリングのに残る、見えない跡。 壁の向こうから漂ってくる、消えない塩素の匂い。 そして、あの乳の浴の折れ戸。
私は鍵を管理会社のち会い担当者に渡し、度も振り返ることなくマンションの階段をりた。
しいまいは、央線沿線の杉並区にある、築浅のマンションの階を選んだ。 向きのきな窓があり、当たりが良く、オートロックのセキュリティは最式の顔認証システムが導入されていた。賃はの部より万円かったが、今の私にとって、はおに代えられないものだった。
季節はに移り変わっていた。 澄んだ青空から、たい枯らしが吹き抜ける夕暮れ。
私はしい部のバスルームで、めの入浴を終えたところだった。 浴槽の湯を抜き、温かい蒸気がち込めるで、バスタオルを体に巻く。
以からの習慣だった。 浴の壁やに滴を残しておくと、カビの原因になる。私はいつも、呂からがるにシリコン製のスクイージーで壁のを切り、マイクロファイバーの吸クロスでの隅を丁寧に拭きげることにしていた。
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に持ったクロスで、グレーのタイルを拭っていく。 キュッ、キュッ、とゴムが擦れる気よい音が、清潔な空に響く。
の隅、排のステンレスの目皿の周囲にを伸ばしたときだった。
タイルの目に残った、たいたまりに指先が触れた。
私のが、ピタリと止まった。
考が、凍りついたように静止した。
――過の、無数の朝の記憶が、鮮烈な濁流となって脳裏に押し寄せてきた。
の部にんでいた頃。 勤の忙しい朝。 顔を洗い、歯を磨くために洗面所に入り、何気なく素で浴のすのこを踏んだとき。
『あれ、たいな……』 『昨のお呂の、ちゃんと拭き取れてなかったっけ……』
そんなふうに首を傾げながら、急いで靴を履き、メイクをして、りで駅へと向かっていた、あの幾もの平穏な朝。
あれは。 本当に、私の拭き残しだったのだろうか。
私がい眠りに落ちていた夜。 誰かが私の鍵をけて忍び込み、この所でシャワーを浴び、あるいは何かを洗い流し、私が目を覚ますわずか数分に、濡れたでちったあとの――あの女の、温かい痕跡だったのではないか。
私は、あいつが流したのに。 あいつがの血を洗い落とした、その同じタイルのに。 何もらずに、無防備な素をねて、常をきていたのではないか。
臓が、ドクンと嫌な音をててねた。 息が苦しくなり、持っていたクロスを握りしめたまま、タイルのたさに指先を張らせた。
もう、確かめる術はない。 由佳の帳の記録を照らしわせれば、答えはるのかもしれない。だが、それをったところで、私の過の朝が清浄なものに戻るわけではなかった。
私の平穏だったはずの常は、ずっと以から、あいつの音と、の血の匂いに汚染されていたのだ。 気づいていなかったのは、私だけだった。
私は震えるで、最の滴を拭き取った。 ちがり、クロスを固く絞ってフックに掛ける。
脱所へて、気を消した。 そして、浴のドアノブを握り、カチリと音がするまで確実に閉めた。
内は静まり返っていた。 蔵庫のい唸り声と、くの甲州をるの音だけが聞こえている。 部のには、私しかいない。 しい鍵は、私しか持っていない。
それでも。
私は寝へ向かう途、暗い廊を振り返らずにはいられなかった。 閉ざされたドアの向こう。 の届かない、真っ暗な浴のの奥で。
誰かが、息を潜めてっているような気がして。