みかん小説
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"深夜1時、母は開けるなと言った" 第17話

引っ越し当、トラックが荷物を積み終え、がらんとした実には、埃の匂いと剥がされたカレンダーの跡だけが残されていた。

私は最のゴミしを確認するため、誰もいなくなった階の廊を歩いていた。 玄関のがり框に、さなダンボール箱がつだけ置かれていた。母が回り品として自分で運ぶと言っていた、貴品を入れるための箱だった。

箱の蓋はいており、には通帳や保険証、父のさな位牌がプチプチの緩衝材に包まれて収められている。 その片隅に、見慣れないさな属の塊が転がっていた。

私はそれをに取った。 古びた真鍮製のプレートに、丸いさなボタンが埋め込まれている。 角が擦り切れ、ので緑青が浮いた、このの玄関脇に取り付けられていた——旧式のチャイムの押しボタンだった。

配線が根元からペンチで切断され、剥きしの線が数センチだけ覗いている。

「母さん」

玄関のから入ってきた母に、私はそのボタンを見せた。 母は背を丸め、ヶよりも回りさくなったような体でち止まった。

「これ、どうしてしたの? ごと壊すんだから、置いていけばよかったのに」

母は私ののにある真鍮のボタンを、じっと見つめた。 その目には、あの狂気のも、怯えの涙もなかった。

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ただ、く澱んだ、底れない疲労のだけが漂っていた。

「……お父さんがね」 母は乾いた声で、ポツリと言った。

「にこのを建てた、番最初に選んだのが、そのボタンだったのよ」

母はがり框に腰をろした。もう誰に気兼ねすることもないはずの、空っぽになったのたいのに。

「お父さんは、あの音が鳴ると、絶対に私に玄関をけさせなかったわ。 誰が来たのか、男か女か、何の用件か、全部自分が見極めてからじゃないと、私にドアノブを触ることさえ許さなかった。 ……私が留守番をしているもね、チャイムが鳴っても、るなって言われていたのよ。私の実の親が訪ねてきても、居留守を使わせられたわ」

母の細い指が、膝ののスラックスのを撫でた。

「私はね、千。 このに嫁いできてから、自分の志で誰かを迎え入れたことも、自分の志で誰かを追い払ったことも、度もなかったのよ。 をけるのも、閉めるのも、全部あのの嫌次第だった」

母は顔をげ、私を見た。 その瞳の奥にある虚無に、私は息を呑んだ。

「だからね、あのがんだ……最初にったのは、しいでも、寂しいでもなかったのよ。 ああ、これからは、誰がチャイムを鳴らしても、私が自分で決めていいんだって。 ……そうったら、あの佐伯さんが来た、断れなかったのよ。

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あののことも、お父さんに渡したことも、全部私がしたことだったから。 あのがチャイムを鳴らした、私、本当は……けたくてけたんじゃないの。 ただ、けないと、またあのがって戻ってくるような気がして……誰かの言う通りにドアをけることしか、私にはできなかったのよ」

母の言葉は、懺悔の形を借りた、どこまでもい絶望の告だった。 支配され、選択を奪われ、自分ののドアをける権利すら持たずにきてきた。 そのが、自由をに入れた瞬に犯したことは、かつて自分が奪われたのと同じ恐怖を、に押し付けることだった。

私はののたい真鍮のボタンを、静かにダンボール箱のへ戻した。 かける言葉は、何つ見つからなかった。

同もできなかった。る気力も湧かなかった。 ただ、目のにいるこの老いた女と私を繋いでいた「族」という名の糸が、音もなく、完全に千切れて消えったことだけを理解していた。

「こう、母さん。産さんが来る」

私は母にを貸さず、先にって玄関をた。 母はよろめきながらちがり、いダンボール箱を両腕で抱えて、私のをついてきた。

にると、のたいが吹き抜け、庭の枯れを揺らした。 解体を待つ古い造は、すでに主を失い、ただの朽ちかけたとコンクリートの塊としてそこに沈黙していた。

母を乗せる介護タクシーと、私を駅へ運ぶ般のタクシーが、同に坂を登ってきた。

台のが、狭いに向かいってまる。

「千」 タクシーのドアがく直、母が振り返った。 その顔には、昔の面が微かに戻っていた。頼りなく、気で、娘の顔を伺う、かつての母の顔だった。

「……また、話してもいいかしら」

私は母の目を見つめた。 そして、数秒の沈黙の、さく頷いた。

「たまになら。……仕事が休みのに」

それ以の約束はしなかった。母も、それ以の言葉を求めなかった。

母はタクシーの部座席に乗り込み、膝のにあのさなダンボール箱を抱え込んだ。 バタン、といドアが閉まり、は音もなく坂をっていった。

私はもう台のタクシーに乗り込み、運転に駅までのき先を告げた。 がきす。 バックミラーの隅に、ざかっていく実の扉が映っていた。 赤錆の浮いた鉄のは、しっかりと閉じられ、もう度と、誰のによってもかれることはないはずだった。

だが、私のの奥では、今もあの無質な子音が、途切れることなく鳴り響いているような気がしていた。

夜のの、誰かが息を殺してち尽くし、たい指先で押し続ける、午のチャイムの音が。

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