"病室を愛人に譲れと言った医師の夫" 第12話
「……あ、ああ……」
喉の奥から、乾いた息が漏れた。 夫は震える取りで歩み寄り、畳の敷かれたプレイスペースのに膝をついた。
「真由美……その子が、俺の……」
私は何も言わず、娘を抱いたまま、しだけ体を傾けた。
娘はに柄のロンパースを着て、私の指をぎゅっと握りしめていた。 ぷくぷくとした丸い頬。 澄んだ黒い瞳。 私が命がけで、あのたい病で守り抜いた、かけがえのない奇跡の命。
「……抱いていいか?」 夫の声は、完全にずっていた。
「目だけでいい。ずっと会いたかったんだ。俺の、俺の本当の娘……」
夫は両を伸ばした。 かつてクリニックの診察で、傲に患者を指図していたそのが、刻みに震えながら娘の体へ伸びていく。
だが。
夫の指先が、娘のに触れるか触れないかのその瞬だった。
「――っ、うわぁぁぁん!!」
静まり返った部に、張り裂けんばかりの泣き声が響き渡った。
娘は全を直させ、夫のを払いのけるように両腕を振り回した。 そして、必の形相で私の胸元にしがみつき、の襟元をぎゅっと握りしめて顔を埋めたのだ。
見たこともない見らぬ男。 タバコと酒と、焦燥の混ざりった異様な匂い。 掠れた、聞き覚えのない濁った声。
半の、度としてオムツを替えたこともなく、ミルクをませたこともなく、夜泣きに寄り添ったこともないを、赤ん坊が父親だと認識するはずがなかった。
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娘にとって、その男はただの「怖ろしい」でしかなかった。
「……あ」
夫の両が、空で凍りついた。
伸ばした指先が、きを失って虚しく震えている。
「どうして……どうして泣くんだ? パパだよ……パパが来たんだよ……!」
夫は必に声をかけようとした。 だが、その声がづくたびに、娘はがついたように激しく泣き叫び、私の背に隠れようとさな体をよじらせた。
「……です」 ち会っていた調員が、静かに、けれど厳格に告げた。 「お子さんがいストレスをじていらっしゃいます。これ以の接触は危険です。お父様、を引いてください」
「待ってください! まだ抱いてもいない! 俺の子だぞ!?」 夫は取り乱し、畳のにを突いて叫んだ。
私は娘の背を優しくトントンと叩きながら、ゆっくりとちがった。 「丈夫よ、怖くないよ。お母さんがここにいるからね」 私の元で囁く声に、娘はしゃくりあげながらも、次第に呼吸を落ち着かせていった。
夫は畳にいつくばったまま、見げるように私を見つめていた。 その瞳から、粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていた。
「真由美……頼むよ……」
掠れた、れな声だった。
「俺は、何を違えたんだ……? 医者になって、クリニックをきくして、跡取りを作って……全部、正しかったはずだろ……? どうして俺には、何つ残らないんだよ……!」
私はち止まり、ドアノブにをかけたまま、振り返った。
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憎しみはなかった。 軽蔑すら、もう通り越していた。 ただ、どこまでもややかな、客観な事実だけがそこにあった。
「妊娠かのあの」
私の声は、調の静寂のに、静かに染み渡っていった。
「あなたが捨てたのは、病だけじゃなかったのよ」
夫の肩が、びくりとねがった。
「、あなたと緒に積みげてきた信頼も。クリニックを支えていた私の仕事も。そして、この子があなたを父親として信じる未来も。あなたが自分ので、全部捨てたの」
「真由美――」
「さようなら、浩司さん」
私は振り返ることなく、ドアをけて部をた。 背で、男が獣のように咽び泣く声が響いていたが、その音はい防音扉の向こうへと、完全に遮断された。
そのの夜のことだった。
自宅の寝で、娘に添い寝をしながら類のチェックをしていた私のスマートフォンが、異様なリズムで振し始めた。
ブーッ、ブーッ、ブーッ。
画面を見る。 非通設定の着信。
切れる。 また鳴る。 切れる。 また鳴る。
度、度、度――。 狂ったような連打だった。
何かの緊急事態かとい、のために着信履歴をいて確認した。 クリニックの顧問弁護士からでも、病院からでもなかった。
履歴の数字は、あっというに膨れがっていた。
【着信履歴:37件】
画面を見つめていると、留守番話サービスにメッセージが録音された通が入った。