"午前二時の着信と百枚の遺言" 第8話
「俊介」 拓也が千尋ちゃんを抱いたまま、こちらを振り返った。 その顔には、夜通し泣き腫らした痕跡が々しく刻まれていた。赤く充血した目蓋、やつれて無精髭の伸びた顎、疲労で青ざめた頬。だが、昨夜この部の扉をけたときに漂っていた、今にも崩壊しそうな痛々しい張り詰まりは、綺麗に消えっていた。胸のに溜め込んでいたのような孤独をすべて吐きしきった男の、どこか洗い清められたような静かな差しだった。 「朝飯、っていくよな。蔵庫に卵とパンがあるんだ。真由のメモに、美しいトーストの焼き方がいてあったからさ」 「ああ、んでいただくよ」 私は笑って答えた。 の通りから、朝のがきす微かな物音が聞こえ始めていた。くをる聞配達のバイクの排気音、駅へ向かう誰かの規則正しい音、え切った樋を伝って落ちる解けの雫。世界は何事もなかったかのようにしいを刻み始めている。 しみは消えない。切なを失った欠落が、完全に埋まるなどこの先も来ないのかもしれない。 それでも、私たちはきていくのだ。 された記憶を抱きしめ、切なのいを背負い、今というを、臭く、懸命に、き抜いていくのだ。 窓のの空は、ひとつないれの青へと染まりつつあった。
広告
たいの向こうに、柔らかな陽が満ちていた。 今も、きよう。 拓也の背に、そして千尋ちゃんのさなのひらに、しい朝のがり注いでいた。
拓也は腕のの千尋ちゃんを、ベビーベッドへとそっと運んでいった。 敷かれた綿毛布のに横たえると、千尋ちゃんはまださなを縮こまらせ、唇をもごもごとかしていたが、母親の遺したいうさぎのぬいぐるみを胸元に添えてやると、したように細いため息をついて目を細めた。眠りの浅い乳児特の、ぴくぴくと震えるさなまぶたを見ろしながら、拓也は掛け布団を胸のさまで丁寧に引きげた。そのつきは、昨夜の怯えきっていたぎこちなさとは違い、器用ながらもしっかりとした父親の慈に満ちていた。 「し、寝てくれそうだな」 拓也がさく呟き、肩の力を抜いた。 「ああ。夜通し泣いて、あの子も体力の限界だったんだろう。今のうちに、俺たちも腹ごしらえをしよう」 私が促すと、拓也は頷き、台所へとを踏み入れた。
昨夜の混乱の余波で、シンクには洗われていない哺乳瓶やマグカップが積まれていたが、朝のが差し込むキッチンは、議と荒涼とした印象を与えなかった。それはひとえに、あちこちに貼られたとりどりの付箋のせいだった。
広告
蔵庫のの扉の表面に、ひときわ目つ黄のメモ用がマグネットで留められていた。真由さんの、し丸みを帯びた、丁寧な跡だった。
『トーストを焼くときはね、パンの表面に字の浅い切れ目を入れてからバターを乗せてね。端っこまでじゅわっと染み込んで、拓也さんの好きな喫茶になるよ。でじっくり温めたトースターで枚焼くのが番美しい焼き加減です』
「……枚、か」 メモを見つめた拓也の指先が、の端をそっと撫でた。 「俺と、真由の分だな。いつか千尋がきくなったら、緒にでべるつもりでいたんだろうな」 「そうだな。じゃあ今朝は、真由さんの代わりに俺がその枚目をいただくよ」 私が言うと、拓也は照れくさそうに元を綻ばせた。 「頼むわ。男分と、真由の祈りの分だ」
拓也は蔵庫から枚切りのパンの袋と、使いかけのバター、そしてパックの牛乳を取りした。私はコートを脱いで子の背もたれに掛け、腕まくりをして流し台のにった。 「俺が洗い物を片付けるよ。おはパンを焼け」 「悪いな、俊介」 「臭いこと言うなって言っただろ」 私は蛇をひねり、たいがしずつぬるま湯に変わるのを待ってから、スポンジに洗剤を含ませた。泡てたスポンジで哺乳瓶の細いや乳首を専用のブラシで洗い流していく。
キュッ、キュッというガラスの擦れう清潔な音が、静まり返っていた部によく響いた。