"金曜日の証言まであと三日" 第19話
返された鍵
初の差しがアスファルトをく照らす曜、私は郊の宅を歩いていた。
坂を登りきった台に建つ、築を超える階建てのアパート。壁のペンキは所々剥げ落ち、ベランダにはとりどりの洗濯物が揺れていた。
でらされていた、浦夫妻のしい所だった。
私はバッグの底から、さな属の塊を取りした。
の鍵。
理恵ののマンションの、そして今の部でも使えるようにと、かつて理恵から渡されていた浦のい鍵だった。の信頼の証として、私のキーケースの特等席にずっと収まっていたものだ。
これを返すために、私はここに来た。
〇号のドアベルを鳴らす。
ピンポーン、というっぽい子音が内に響いた。
数秒の、バタバタと慌ただしい音がづいてきて、ドアチェーンのれる音がした。
「はい——」
ドアをけたのは、正さんだった。
休の午だからだろう、首の伸びたグレーのTシャツに、穿き古したデニムというラフな格好だった。
以の彼にあった、堅メーカーの営業マン特のピシッとした気難しさは消え失せていた。顔は焼けして浅黒くなり、腕には運送会社での力仕事でついたのか、細かな擦り傷が幾つか見えた。髪にも髪が混ざっていたが、その表は、半の警察署で見せた絶望な諦とはまるで違っていた。
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にの着いた、活者の顔だった。
「……織さん」
正さんは目を見張り、それから気まずそうに線を泳がせた。
「突然すみません。理恵は……」
「パートだよ。曜はスーパーが混むからって、夕方まで戻らない」
「そうですか」
私はしホッとしていた。理恵に会いたい気持ちがなかったわけではないが、今の距には、これくらいが丁度いい気がしていた。
「これ、返しに来ました」
私はのひらに載せたの鍵を差しした。
正さんはその鍵を見つめ、それからさく息を吐いて受け取った。
「わざわざ、悪かったね」
「いえ。持っているのも変ですから」
玄関先には、狭いにの靴が几帳面に並んでいた。奥のキッチンからは、煮物の匂いが微かに漂っている。決して豊かではないが、丁寧に暮らしている気配があった。
「理恵から聞いたよ。悠真くんのこと」
正さんが言った。
「ええ。LINEをもらいました」
「あいつね、毎週末、理恵に話してくるんだよ。『今週はフォークリフトの講習をパスした』とか『残業代がたからスーパーでい肉を買った』とか、くだらない報告ばっかり」
正さんは苦笑した。その笑顔には、以のような無理な力みはなかった。
「理恵も、休みのにたまに惣菜を作って届けてるみたいだ。俺はもう、何も言わないことにしてるよ。あいつが自分の遣いの範囲でやってる分には、あいつの勝だからね」
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「そうですね」
私は頷いた。
「正さんも……元気そうでよかったです」
「元気だけが取り柄だからね、今は」
正さんはを掻いた。
「運送の仕事、体はきついけど、案性にってるよ。営業やってた頃みたいに、胃を痛めながら数字を追うこともないしね。マンションの借はまだまだ残ってるけど……まあ、で働けば、飯はえる」
が吹き抜け、廊に掛けられた鈴がチリンと鳴った。
私は歩、ろにがった。
「じゃあ、私はこれで」
「うん。気をつけて」
背を向けようとした瞬、私の胸のに、ずっと澱のように沈んでいた言葉が浮かんできた。
あの、警察署の取調で、私が正さんのアリバイを証言したのこと。
もし私が嘘をついていたら、このは今頃、刑務所のたい壁のにいたはずだ。
「正さん」
私は振り返った。
「あの……警察で、あなたのことを本当は庇わなきゃいけないんじゃないかって、私、晩迷ったんです」
正さんは黙って私を見つめていた。
「私の弟のせいで、理恵も、正さんも、こんな活になってしまって……本当に、申し訳ありませんでした。そして……あの、代わりにまでなろうとしてくれたこと……ありがとう、ございました」
をげようとした私の言葉を、正さんは遮った。
「やめてくれ」
い声ではなかった。けれど、静かで、揺るぎない響きがあった。
正さんはゆっくりと首を横に振った。
「お礼なんて言われる筋いじゃないよ、織さん。あれは……謝されるようなことじゃない」
彼は自嘲気に、けれどどこかれやかな顔で笑った。
「誰かの代わりに罰を受けてやるなんて、ただの自己満だったんだよ。『俺が番耐えられる』なんていがって、理恵から責任を奪って、君に嘘をつかせようとした。……あんなの、優しさでもでもない。ただの卑怯な逃げだったんだ」
正さんの言葉が、私の胸に温かく沁み渡っていった。
「君が本当のことを言ってくれて、よかったよ。俺は理恵に、ちゃんと自分の犯した罪を背負わせることができた。そして俺も、自分の選んだ妻と、緒にを啜ることができてる。……今の活のほうが、ずっと胸を張れるよ」
「……はい」
「じゃあね、織さん。理恵にも、鍵を受け取ったって伝えておくよ」
「お願いします」
正さんは軽くを挙げると、ゆっくりとドアを閉めた。
カチャリ、とチェーンが掛かる音がして、それから静寂が戻ってきた。
私はアパートの階段をりた。
見げる空は、抜けるように青く、どこまでもかった。
親友ののい鍵は、もう私のポケットにはない。
何かあったに、無条件で駆けつける関係も、もう終わった。
けれど、私たちはそれぞれ、自分ので、自分ののみを抱えてっている。
理恵は理恵の痛みを。
悠真は悠真の償いを。
正さんは正さんの責任を。
そして私は、私がした決断の続きを。
誰かに代わってもらうことも、誰かに押し付けることもなく。
私はバッグを肩に掛け直し、初の差しがり注ぐ坂を、を向いて歩きした。