みかん小説
本棚

"八年分の源泉徴収票" 第11話

夕方の病院の庭で

母は何も言わずに歩器の向きを変え、そのままエレベーターホールへと消えていった。

私が駆け寄ったときには、エレベーターの扉はすでに閉まっていた。

表示階を示すランプが、階へとりていく。

階のロビーを探し回り、庭へ通じる自ドアを抜けたところで、ようやく母の姿を見つけた。

昨夜のが嘘のようにれがり、たいの夕暮れが庭を赤に染めていた。

母は、枯れ葉が積もったのベンチの端に、さく腰掛けていた。

歩器はベンチの脇に放りされ、母は両を膝ので固く組み、ただじっと、面に伸びる自分のを見つめていた。

吹き抜けるが、母のくなった髪を激しく揺らしている。

私は自販で買った温かい緑茶の缶を握りしめ、ゆっくりと母にづいた。

落ち葉を踏む私の音に、母は気づいていたはずだったが、顔をげようとはしなかった。

「お母さん」

声をかけても、返事はない。

私は母の隣に、しを空けて腰をろした。

ベンチの肌は氷のようにたかった。

温かいお茶の缶を母の膝のに置く。母のがピクリとき、缶の温もりに触れたが、それを握ろうとはしなかった。

「……がたいよ。部に戻ろう」

「恭子」

母がポツリと言った。

乾ききった、の抜けた声だった。

広告

「修司さんは、毎晩私の始末をしてたんだね」

息が詰まった。やはり、聞いていたのだ。

「私が違えた伝票を、夜にこっそり直して……朝になると『さすがですね』って笑って渡してくれてたんだね」

「お母さん、修司は悪気があってやったんじゃないの。修司はお母さんを傷つけたくなくて――」

「惨めだねぇ」

母が自嘲するようにさく笑った。その笑い声が、私の臓を細い針で刺すように痛んだ。

「自分では、まだ若いたちに負けない仕事をしてるつもりだった。昭の古い図面を引っ張りして、会社を助けてる気になってた。……でも全部、ごっこ遊びだったんだよ。社の義母だからって、腫れ物に触るみたいに扱われて、で尻を拭いてもらって……」

母の肩が、さく震え始めた。

「私、あの会社で、番いらないだったんだね」

その言葉を聞いた瞬、私ので張り詰めていた何かが切れた。

「どうしてそこまで言うの!?」

私はわず、母の方へ体を向けた。

「そこまでして、どうして働かなきゃいけないのよ! 修司に気を遣わせて、葵さんに迷惑をかけて、自分の体まで壊して……そんないをしてまで、なんであの所にこだわるの!?」

私の目から、涙が溢れた。

ずっと胸の奥に澱のように溜まっていた疑問が、鳴となってからびした。

「お父さんが残してくれたがあるじゃない! だって、贅沢しなければ暮らしていけるでしょう!? 私がいるじゃない! 何か困ったことがあれば、私が全部やってあげるって言ってるじゃないの!」

私は母のえ切ったを、両でく握りしめた。

「もういいじゃない、お母さん。歳だよ? もう分に働いたよ。誰にも気兼ねせず、で好きなテレビを見て、お茶をんで、のんびり暮らせばいいじゃない。なんで私のそばで、おとなしく事にされててくれないの!?」

実の娘としての、からの叫びだった。

母をしているからこそ、母を傷つけたくないからこそ、どうしても理解できなかった。

母は、握られた自分のをじっと見つめていた。

赤く染まった夕陽が、母のい目尻の皺をくっきりと浮かびがらせていた。

やがて母は、私のをゆっくりと、けれど確かな力で押し返した。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: