"八年分の源泉徴収票" 第9話
放さない黒いノート
松岡業とのトラブルの消しのため、修司が血相を変えてへ向かったあと、私は、病院の暗い廊にち尽くしていた。
には、修司の鞄から抜き取った、問題の注文の控えがあった。
昭の古い図面番号と、き台帳の枝番。
確かにそこには、母の几帳面な跡で『8』とかれていたが、朱きで『3の誤記』と訂正の線が引かれていた。
その線が引かれたのは、母が入院するだった。
病のドアを静かにけると、母はベッドので浅い呼吸を繰り返していた。
さきほど庭で私の言葉を浴びたショックからか、顔はのように青ざめ、掛け布団を首元まで引きげている。
「お母さん」
私が声をかけると、母の肩がびくりとねた。
ゆっくりとかれた瞳には、先刻までの毅然としたたさはなく、何かを恐れるような怯えのが混じっていた。
私はパイプ子を引き、できるだけ穏やかな声で言った。
「松岡業さんの図面のこと、葵さんから連絡があったの」
その瞬、母の呼吸が止まった。
掛け布団ので、母のが素く蠢いた。
枕のに何かを隠すように、細く節くれだったが潜り込んでいく。
「……葵さんが、何か言ってたかい」
「番号の枝番が違ってたって。が違ったまま削りしちゃって、今、修司が先方に謝りにってる」
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私は責める調にならないよう、細の注を払った。
ただ事実を確認したかった。母が何を違え、なぜ隠そうとしたのかを。
「お母さん、入院するに、台帳の数字をき直した?」
母は答えない。
線を宙に泳がせ、乾いた唇をさく震わせている。
「……私は、違えてない」
掠れた声だった。
「ちゃんと確認したよ。台帳の通りにいたんだ。葵さんが……あの若い子が、読み違えたんじゃないのかい? 最の子は、昔の癖字が読めないから」
「お母さん」
「私は違えてないよ! も帳簿をつけてきたんだ! あんな簡単な数字の照、違えるはずがないだろう!」
母が突然、切り声をげた。
同の患者が驚いてじろぎする気配がした。
母のが、枕のから何かを引き抜き、胸元にく抱きしめた。
隅が擦り切れ、黒い表の皮が剥がれかけた、冊の古いB6版のノートだった。
「これを見ればわかるんだ。ここに入院のメモが全部いてある。私はちゃんと……ちゃんとやってたんだ」
そう言いながら、母の指は激しく震えていた。
ノートの角を握りしめる指先の皮膚が、く鬱血している。
それは、自分の正しさを主張するの態度ではなかった。
自分の衰えを、限界を、誰よりも本が番よくっていて、それを暴かれることに怯えきっている子どもの姿だった。
母は、怖かったのだ。
番号を違えたことそのものよりも、その違いによって「もうあなたには任せられない」と宣告されることが、ぬほど怖かったのだ。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
「……分かった。もういいから、ノートをして」
私がを伸ばすと、母は獲物を奪われまいとする獣のように、ノートを背のろに隠した。
「触らないで! これは私のものだ! 誰にも渡さない!」
その目を見て、私は息を呑んだ。
そこにあったのは、頑固な老のなどという易しいものではなかった。
自分の義のすべてを、その汚れたノート冊に託してしがみついている、の切実な叫びだった。