"八年分の源泉徴収票" 第3話
昭のき台帳
翌朝、私は夫の制止を振り切り、田区にあるカタオカ精へ向かった。
京浜線の駅から歩いて分ほどの、町がひしめく角。
シャッターの奥からは属を削る甲い音と、油の焦げたような匂いが漂っている。
事務所は、の階にあるプレハブ造りのさな部だった。
夫は朝から取引先へかけていてだったが、事務員の若い女性――入社目になる葵さんが、伝票のに埋もれるようにしてパソコンを叩いていた。
「あ、奥さん! おはようございます」
葵さんは私に気づくと、慌ててちがった。
「急に来てごめんなさいね。ちょっと、忘れ物を取りに来ただけだから」
私は平静を装いながら、狭い事務所を見渡した。
スチール机がつ。夫の机、葵さんの机、回り営業の机、そして――窓際に、もうつさな机があった。
その机のだけ、パソコンが置かれていなかった。
代わりに、綺麗に揃えられた鉛て、季の入った黒い老鏡ケース、そして見覚えのある緑茶の入った保温筒が置かれていた。母がいつもで使っているのと同じものだった。
背もたれには、母のお製のさな座布団が敷かれている。
「あの……奥さん」
葵さんが、すがるような目で私を見ていた。
「雅子さん、お怪の具はどうなんですか? 社から『しばらく来られない』って聞いたんですけど……」
広告
「ええ、しを痛めてしまって。入院してるの」
「そうなんですか……どうしよう」
葵さんは本当に困り果てたように、自分のを抱えた。
「来週には、退院できそうですか? だけでも、顔をしていただくわけにはいかないでしょうか」
私は眉をひそめた。
「そんなに困ること、ある? 母がやってたのって、ちょっとした類のお伝いでしょう?」
すると葵さんは、底だという顔をして、窓際の机の脇に積まれたダンボールを指差した。
「ちょっとしたお伝いなんてとんでもないです! これ、全部雅子さんが管理してくださってるんです」
箱のから取りされたのは、分い布張りのファイルだった。
表には、母の几帳面な毛のような文字で『昭〜 特殊型発注控』とラベルが貼られている。
ページをめくると、褪せた伝票ときの図面番号が、信じられないほど精緻に、几帳面なインクの文字で分類・索引づけされていた。付箋には『潟・越精様 代替品対応履歴あり』などと、細やかなメモがびっしりとき込まれている。
「にうちが吸収したの古い資料なんですけど、全部きで、パソコンのデータと全然紐づいてなくて……。先代の職さんたちが引退しちゃってから、誰も読めなくなってたんです」
葵さんは必に説した。
広告
「でも、雅子さんが来てから、昔の帳簿の付け方を全部解読して、今のシステムと突きわせる台帳をで作ってくれたんです。昨も潟の取引先からの部品の問いわせがあって……雅子さんのメモがないと、図面の枚も探しせないんです」
私は言葉を失った。
母は昔、さな卸売問で、事務員として働いていた。
パソコンなどない代、そろばんと伝票だけで膨な庫をさばいていただった。
だが父がくなってからの母は、ただの「がくなり、腰の痛みを訴える齢の母」だったはずだ。
私がスーパーの袋を持っていくと、「いつもすまないねぇ、いものを持てなくなっちゃって」とさく笑っていた母。
テレビのリモコンの操作がわからなくなったと私を呼びし、「械はちんぷんかんぷんだよ」と苦笑いしていた母。
その母が、ここでは誰にも代わりのきかない「専」として頼りにされていた。
机のに置かれた老鏡ケースを見つめる。
縁が擦り切れ、母が事そうに撫でていたあのケースだ。
私は母の何を「見て」いたのだろう。
全から血の気が引いていくような覚を覚えながら、私は事務所をびし、母の入院する病院へと向かった。