"夫が届出た私の失踪" 第15話
ヶの猶予
球のかりの、私たちはとも黙り込んでいた。
し切ったの残骸が、え切った畳のに散らばっているようだった。
健の荒い呼吸が次第に落ち着き、音だけが静かに部を満たしていく。
「……鷺沼の部」
私がをくと、健がわずかに肩を震わせた。
「さんから聞いたわ。あなたも、ヶに部を借りていたんでしょう? 万千円の、オートロックの部」
健は驚いたように目を見張ったが、すぐに観したように息を吐きした。
「……のやつ、喋ったのか」
「ええ。郵便受けのテプラ、見てきたわ。『佐藤』って貼ってあった」
健は自嘲の笑みを浮かべ、首を横に振った。
「おを責める資格なんて、最初から俺にはなかったんだよな」
「どうして借りたの?」
「怖かったんだ」
健はぽつりと言った。
「おがこの部に通っているのをってから、毎が針の筵だった。いつ『別れてくれ』と言われるか、いつに帰ったら荷物が全部消えているか……怯えて暮らすのが嫌だった。もしおに捨てられた、あの広いにで残されるのが耐えられないとった。だから……先に逃げ所を作ったんだ。『俺からてったんだ』って、自分に言い訳できるように」
お互いに、相の背を見ていただけだった。
相が逃げす気配に怯え、先回りして自分の殻に閉じこもり、相が先に消えるのを待っていた。
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積みねてきた「信頼」の正体が、こんなにも脆い保の塊だったことに、私は激しい羞恥と虚しさを覚えた。
「ねえ、健」
私はテーブルに両を置いた。
「私たち、これからどうするの?」
健は答えなかった。
テーブルのの麦茶のコップを指先で回している。
「婚届、く?」
私の問いに、健の指が止まった。
彼はゆっくりと顔をげ、私の目をじっと見つめ返した。その瞳には、先ほどまでの刺々しいりは消えていた。
「……おは、婚したいのか?」
「分からない」
私は正直に言った。
「あなたをしているかと聞かれたら、昔みたいに胸を張って『してる』とは言えない。でも、憎くて顔も見たくないわけじゃない。ただ……あのに戻って、また何事もなかったみたいにで暮らすのは、もう息が詰まって無理だとう」
健はく頷いた。
「俺もだ。おを許したわけじゃないし、自分がしたことの浅ましさにも吐き気がしてる。今さら『仲直りしてやり直そう』なんて、が裂けても言えない」
の見が、皮肉にもこれ以ないほど致していた。
元通りには戻れない。けれど、今すぐ完全にになる覚悟もない。
「じゃあ……こうしない?」
私は提案した。
「この部の契約、あとヶ残ってるの。あなたの鷺沼の部も、まだ借りたばかりでしょう?」
健が眉をひそめた。
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「……何を言ってるんだ?」
「ヶ、お互いにあの部を持ったままにしましょう」
「部を……?」
「そう。には帰る。普通に暮らす。でも、お互いにその部を解約しないの。そして、週に度でも、度でも、になりたいは、相に黙ってくのをやめるの」
健が息を呑んだ。
「くは、ちゃんと相に言うのよ。『今、あっちの部にくから』って。言われたほうは、何に帰るのかも、何をするのかも聞かない。引き止めもしない。……隠れて逃げるんじゃなくて、堂々とになるを認めるの」
馬鹿げた提案だった。
普通の夫婦なら、破綻への第歩としかえない歪なルールだ。
だが、健の顔に浮かんだのは、拒絶ではなく、奇妙な納得のだった。
「……そんなことして、何になる」
「分からないわ。ヶ経った、やっぱり駄目だとったら、そのは婚届をせばいい。でも、なくとも『相がいつ消えるか分からない』って怯えながら暮らすよりは、マシじゃないかしら」
健は井を仰ぎ、く息を吐きした。
やがて、線を私の顔に戻し、さく頷いた。
「……分かった。ヶ、やってみよう」
その夜、私は奈津に話をかけた。
スピーカーフォンにして、健も隣に座らせた。
事を説し、私たちの決めたルールを伝えると、話の向こうの奈津はい沈黙のあと、盛な溜息を吐きした。
『……呆れた』
奈津の乾いた声が響いた。
『夫婦で同じにみながら、それぞれに別の部をキープして、堂々と通うわけ? 何それ。別居なんだか同居なんだか、なんだけど』
「奈津、ごめんね」健がをげた。見えない相に対して。
『謝らなくていいよ。……まあ、裏でコソコソ逃げ所作って、警察汰になるよりは百倍マシだけどさ』
奈津はをすすり、しだけ声のトーンを落とした。
『で、結局、は婚するの? しないの?』
私は健と顔を見わせた。
健がさく首を横に振った。
「分からないわ」私は奈津に答えた。「でも、今回は……どっちかが先に消えるような終わり方はしないから」
話を切った、部のには穏やかな沈黙が流れていた。
はいつのにかりになり、くの踏切の音が、さっきよりもしだけ優しく聞こえた。