"夫が届出た私の失踪" 第10話
「とも、狡いよ」
玄関のドアをけると、には履き古されたいスニーカーが脱ぎ捨てられていた。
娘の靴だ。
リビングの引き戸をけると、奈津はダイニングの子に座り、きなリュックサックを元に置いたまま、両でえた麦茶のグラスを握りしめていた。
京は初の陽気だというのに、のパーカーの袖を指先まで引っ張り、頑なにを縮めている。
「奈津……」
私が声をかけると、奈津はゆっくりと顔をげた。
歳。目元は健に似てしがり気で、頑固そうな元は私にそっくりだった。
その瞳には、寝の充血と、隠しようのない苛ちが渦巻いていた。
「鷺沼で、何してたの」
番、奈津がく問うてきた。
「お父さんを探しにってたの? それとも、別の用事?」
私はエプロンも着けず、ったまま息をえた。
娘に対して、いつものように「なんでもないわよ」「の事だから配しなくていいの」と取り繕う言葉が、喉元までかかった。
けれど、先ほど鷺沼で見た『佐藤』のテプラと、昨テーブルに残されていた黄い付箋が、私の舌を縛り付けた。
もう、誤魔化せない。
これ以嘘をねれば、このは本当に跡形もなく壊れてしまう。
「奈津、座って聞いて」
「座ってるよ」
奈津は眉を吊りげ、グラスをテーブルにトンと置いた。
広告
氷がさく音をてる。
「お父さんはどこにいるの。警察はなんて言ったの。曜の話のとき、お母さんはどこにいたの。全部教えてよ」
私はダイニングの、いつも健が座っていた向かいの子を引いた。
製の背もたれにをかけ、く息を吐きした。
「お母さんね……部を借りていたの」
部のの空気が、瞬で凍りついた。
奈津が瞬きを止め、私の顔を凝する。
「……部?」
「駅からつ先の駅の、古いアパート。畳の、さな部よ」
「誰かと……んでるの?」
「違う」私は首を横に振った。「よ。具も何もない。ただの畳の部。ヶから、毎週曜の夕方、パートが終わったあとの数だけ、そこにいたの」
奈津の顔から、急速に表が抜け落ちていった。
驚きというよりは、あまりに突拍子のない、だが々しい告に、理解が追いついていない顔だった。
「なんで……?」
掠れた声だった。
「なんでそんなことするの? お父さんに内緒で? 浮気じゃないなら、なんでわざわざお払ってそんな部借りるの?」
「息が、詰まりそうだったからよ」
私は自分の膝を見つめたまま、絞りすように言った。
「あなたが京都へって、このにきりになって……毎朝お弁当を作らなくなって、夕方に誰の帰りを待っているのかも分からなくなって。健と顔をわせても、気の愚痴か『普通』の言しか交わさなくなって。
広告
自分が、誰の妻で、誰の母親で、何のためにここに座っているのか、分からなくなったの。週に度でいいから、誰の世話もしなくていい所が欲しかった」
残酷なほど勝な告だった。
母親として、娘に聞かせていい言葉ではないことくらい分かっていた。
奈津の顔が歪み、握りしめた拳が刻みに震え始めた。
「じゃあ……お父さんは、それをってたの?」
「……っていたみたい。いつからかは分からないけれど」
「だから警察にったの? 『お母さんが消えた』って?」
「そう。お父さんは、私が曜ににいないことをっていて、曜の夜にすき焼きをべたあと、警察にって方者届をしたの」
奈津はちがった。
子の脚がフローリングを擦り、甲い鳴をげた。
「馬鹿じゃないの!?」
奈津の声が、静まり返ったリビングに炸裂した。
「とも、なんなのそれ! が分からない! 部を借りて隠れてたお母さんも、それを黙って見てて警察に駆け込むお父さんも、どっちも狂ってるよ!」
「奈津――」
「それだけじゃないの」
私は震える声で遮った。逃げるように言葉を継いだ。
「お父さんも……借りていたのよ」
奈津のきがぴたりと止まった。
「……は?」
「鷺沼にね。ヶ、お父さんもワンルームマンションを契約してた。さんに紹介してもらって、で暮らすための部を用してたの。
私と同じ期に」
奈津はきくをけたまま、信じられないものを見るように私を見つめた。
やがて、その目から粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
りではなく、い、底れない侮蔑と壮が、娘の顔を覆っていた。
「……とも、狡いよ」
奈津は両で顔を覆い、しゃくりあげるように泣きした。
「喧嘩もしないで、仲の良い夫婦のふりして……裏ではして、いつでも逃げせる穴を掘ってたんじゃない。お互いに背向けて、相が先に消えるのを待ってただけじゃない! そんなの、夫婦でも族でもないよ……ただの同居以だよ!」
奈津の叫びは、寸分の狂いもなく私の胸の急所を抉り抜いた。
言い返す言葉など、言も持ちわせていなかった。