みかん小説
本棚

"夫が届出た私の失踪" 第8話

もうつのワンルーム

喫茶のの音が、やけにきくに響いていた。

員が運んできたつのブレンドコーヒーから、湯気がかすかにちっている。

「……が、届かない所?」

私は掠れた声で繰り返した。

「ええ」

さんは頷き、額の汗をハンカチで拭った。

「最初は、娘の奈津ちゃんが京都へったから、寂しくて夫婦の会話が減った愚痴かとったんです。うちも子供が独した、妻ときりになってが持たない期がありましたからね。だから『どこの夫婦もそんなもんだよ、が経てば慣れる』って笑って流したんです」

さんは子タバコを指で弄び、さく息を吐いた。

「でも、健の様子はどんどん切迫していった。『慣れるとかそういう問題じゃないんだ』って。『あいつは、俺のらないところで、完全に別のとしてき始めている』って言うんですよ」

息が止まりそうだった。

健は、すべてを見ていたのだ。

私が駅の産に入ったところからか、それとも、あのモルタル塗りのアパートの階段をがっていく私のろ姿か。

毎週曜の夕方、彼がどんないでその景を眺めていたのかを像すると、背筋にが流れるようだった。

「健はね、美紀さん」

さんが、探るような、どこか責めるような差しで私を見た。

広告

「『もし夫婦のどちらかが、完全にを別の所に持っていってしまったら、無理に同じ根のにいるより、れたほうがいいのかな』って、真顔で聞いてきたこともありましたよ」

「……別居の相談を、されていたんですか?」

「相談というか、独り言にかったですがね。でも、あいつ、ただ悩んでるだけじゃなかったんです」

さんは声を段とくし、を乗りした。

「ヶのことです。の終わり頃、健に頼まれたんですよ。『の同級に、産をやってるやつがいただろう。紹介してくれないか』って」

ドクン、と臓がねがった。

「産、ですか?」

「ええ。隣の駅――ほら、急のまる鷺沼駅のくで、賃貸のワンルームマンションを探してくれって頼まれたんです。賃は、万くらいで、駅から歩けるところで、すぐに審査が通る物件はないかって」

のの景が、ぐらりと揺れた。

鷺沼駅。がのある駅から、私鉄で駅隣のだ。

「健が……自分でむために、ですか?」

「あいつは『ちょっと仕事用の斎というか、荷物置きが必になった』って誤魔化してましたけどね。そんなわけないでしょう。ワンルームに荷物置きなんて借りる奴はいませんよ。完全に、をる準備でした」

言葉がなかった。

健が、部を探していた。

私と同じように。

広告

私がヶにあの万千円の部を借りたのと、まったく同じ期に。

「それで……健は、その部を借りたんですか?」

さんはしの、躊躇するように目を泳がせたが、やがてさく頷いた。

「……ええ。私のりいの業者ですから、で聞きました。のに、契約を済ませたそうです。鉄骨マンションの階、賃万千円の1K。敷も礼も払って、鍵も受け取ったと聞きました」

目のが真っになった。

健も、持っていたのだ。

私に隠れて。族の誰にも言わずに。

あの自宅とは別の、自分だけの部を。

「美紀さん、本当に何もらなかったんですか?」

さんの声が、くから聞こえるようだった。

「健は、本気でしたよ。『もし終わりにするなら、追いされるようにていくのは惨めだからな。戻る所じゃなくて、く所を用しておきたいんだ』って、酒をんだに笑いながら言ってました。ちっとも笑えてない顔でね」

の奥で、激しい鳴りが始まった。

私は、息をするためにあの部を借りた。

妻を辞め、母親を辞め、週に数だけ自分に戻るために。

だが、健はどうだったのか。

健が部を借りたのは、逃げのためではない。

私という妻が、すでに自分を捨てろうとしていると確信し、その「捨てられる恐怖」に先回りして、自分から逃げすための防空壕だったのではないか。

私たちは、同じベッドで眠り、同じテーブルで事をしながら、まったく同じことをしていたのだ。

互いに相の異変をじ取りながら、度も「どうしたの?」「何かあったのか?」と言葉を交わすこともせず。

背を向けい、相の見えないところで、それぞれ別の部を契約していた。

『妻が曜からいなくなりました』

あの健の通報が、再び鮮烈なを持って蘇ってきた。

あれは、ただの嫌がらせでも、狂言でもなかった。

曜。

ですき焼きをべた、あの夜。

健は、自分自の逃げ所であるワンルームの鍵をポケットに忍ばせながら、向かいに座る私の顔を見ていたのだ。

そして、確信したのだ。

『ああ、この女はもう、ここにはいない』と。

だから、引きを引いたのだ。

自分が用した部へ逃げ込むに、最の趣返しとして。

世に向かって、「妻が消えた」と叫ぶことで、私に致命な傷を負わせるために。

「さん」

私は震える声で、テーブルに両を突いてちがった。

「その、鷺沼のマンションの所を……教えていただけますか」

さんは驚いて私を見げたが、私の顔に浮かんでいた尋常でない決に圧されたように、ゆっくりと帳をき始めた。

は、いつのにかががり、烈な初の陽射しがアスファルトをく焼き始めていた。

つのワンルーム。

互いに隠し持っていた、逃げすための鍵。

私たちはどこでボタンを掛け違え、どこで相を見失ってしまったのか。

答えは、その鷺沼の部にあるはずだった。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: