"夫が届出た私の失踪" 第5話
万千円の部
濡れた付箋をコートのポケットにねじ込み、私は夜ののへびしていた。
が焼けるようにいのに、指先は氷のようにたかった。
駅へ向かうが止まらない。傘もささずに改札を通り、りホームに滑り込んできた各駅に乗り込んだ。
内はまばらな帰宅客で静まり返り、吊り革の揺れる音だけがに障るように響いていた。窓ガラスに映る自分の顔は、青ざめて、まるで何かに追われている霊のようだった。
駅。にしてわずか分。
私鉄のさな駅でり、線沿いの細いを歩いた。
赤提灯の居酒やスナックが途切れた先、灯のも届かない角に、その建物はあった。
築、モルタル塗りの階建て雑居アパート。階にはシャッターのりた板のない倉庫が入り、階段は赤錆が浮いて、段がるごとにギシギシと鳴をげた。
階の突き当たり。302号。
私はバッグから、自宅の鍵束とは別のリングにつけた本のさなの鍵を取りした。
鍵穴に差し込み、回す。
カチャリ、とさな属音がして、ドアがいた。
部のは真っ暗だった。
壁のスイッチを押すと、井からぶらがった裸球が、じわじわと黄いを放ち始めた。
畳の。
畳は擦り切れて黄く変し、壁の端がしめくれている。
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具らしい具は、部の隅に置かれた千円もしない折りたたみ式のローテーブルと、座布団が枚。それから、型の蔵庫と気ケトルがあるだけだった。
押し入れの襖は閉め切られ、カーテンは遮の気ないグレー。
誰の活もない。逃者の隠れですらない、ただの「角い空」だった。
私は座布団のに崩れるように座り、両で膝を抱え込んだ。
賃、万千円。敷・礼なし。
ヶ、私はこの部を自分名義で借りた。パート代をしずつ貯めていた個座から、毎自引き落としで支払っている。
健には、何つ言っていなかった。
浮気相がいるわけでもない。宗教にハマったわけでも、起業の準備をしているわけでもない。
ただ、息がしたかったのだ。
の、娘の奈津が京都の学に学してをた。
それまでの、私の活は奈津と健をに回っていた。朝に起きて弁当を作り、洗濯を回し、パートにて、夕方にスーパーで特売の材を買い、夜は夫の帰宅にわせて呂を沸かし、夕飯を温め直す。
奈津がいなくなって、は急に広くなった。
そして、その広いので、私と健は恐ろしいほど話すことがないことに気づいた。
健が帰宅し、テレビをつける。私は台所にち、料理を運ぶ。
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『今、どうだった?』と私が聞けば、『普通』と返ってくる。
『、何にるの?』と聞けば、『いつも通り』と返ってくる。
互いに鳴りうことも、物を投げうこともない。
ただ、お互いが「相はこういうだ」と決めつけ、それ以の確認を切やめてしまった、静かで、え切った常。
ある曜の夕方、パートの帰りに、駅の産のガラス戸に貼られた「即入居 万千円」の取り図が目にび込んできた。
その瞬、私のので何かがぷつりと音をてて切れたのだ。
週に度、たった数でいい。
誰の妻でもなく、誰の母親でもなく、名すら呼ばれない所で、ただで座っていたい。
『今は何に帰るの?』と聞かれない所。
誰かのために麦茶を沸かさなくていい所。
夕飯のメニューを考えなくていい所。
以来、私は毎週曜のにパートを終えると、まっすぐここへ来ていた。
コンビニでおにぎりをつ買って、この座布団に座ってべる。テレビもない部で、スマホの源を切り、ただ文庫本を読んだり、の音を聞いたりしていた。
そして夜のになると鍵をかけ、何わぬ顔で自宅のマンションへ帰るのだ。
『今、棚卸しで遅くなっちゃって』
健はリビングでテレビを見ながら、『ああ、お疲れ』とだけ言った。
私はそれで、うまくバランスを保っているつもりだった。
庭を壊す気なんてなかった。健を捨てるつもりもなかった。
ほんのしの呼吸穴があれば、私はまた週、「良き妻」を演じ続けられるとっていた。
けれど――あの黄い付箋が、私のその欺瞞をっ端微に砕していた。
健は、気づいていた。
私が毎週曜に、どこかへ消えていることを。