"私を捨てるはずだった夫" 第16話
目の観察期
桜の季節が過ぎ、緑の匂いがに満ち始めたの曜。
狭いLDKのダイニングテーブルを挟んで、美咲がたい麦茶を喉に流し込んでいた。
学になり、髪をしるい茶に染めた美咲は、すっかりびた顔つきになっていた。
「ふーん」
美咲は空になったグラスを置き、リビングを見回した。
「なんか、のより部が片付いてるじゃん」
「直さんが先、いらない本と類をごっそりブックオフに売ったのよ」
私が台所から答えると、畳半の部から休のTシャツ姿の直が顔をした。
「美咲、おが置いていったの教科も処分したぞ。いいんだろ?」
「あ、全然いい。どうせ度と見ないし」
美咲はあっけらかんと笑い、それから直と私を交互に値踏みするように見つめた。
この半、私たちは劇に仲直りしたわけではなかった。
相変わらず寝は別々だったし、平の夕飯は各自で適当に済ませることがかった。
ただ、曜だけはどちらかが夕飯を作り、で並んでべるようになった。
に度は、互いに完全にで過ごすをカレンダーにき込み、干渉しない週末を作った。
「夫婦」という曖昧な甘えを捨てて、互いの距を測り直す作業を、私たちは半、に続けていた。
「ねえ」
美咲が唐突に言った。
広告
「ってさ、結局仲直りしたの?」
直がお茶を淹れるをピタリと止めた。
私はふきんでテーブルを拭きながら、さく首を横に振った。
「してないわよ」
美咲が目を丸くした。
「え? でも、普通に喋ってるし、お父さんまだここにんでるじゃん」
「まだ、観察期なの」
「観察?」
美咲が吹きした。
「何それ。結婚も経って、何を今さら観察することあるのよ」
「経ったからよ」
私が言うと、直が苦笑いしながら美咲のに湯呑みを置いた。
「美咲、おがってるよりな、歳のの性格ってそう簡単には直らないんだよ。俺はおのお母さんに呆れられないように、毎必に契約更してもらってるんだ」
「何それ、賃貸物件かよ」
美咲は声をあげて笑った。
その笑い声が、狭いリビングの壁を震わせた。
かつてのような張り詰めた苦しさは、もうどこにもなかった。
夕方、美咲が「バイトあるから」と軽なリュックつで帰っていったあと、部には再びの静寂が戻ってきた。
「……そういえば」
直が押し入れのでを止めた。
「袋の奥に、つだけけてない段ボールがあったんだよ」
引きされてきたのは、埃をかぶった型の段ボール箱だった。
表面には、引っ越しのに私が殴りきした赤いマジックの字が残っていた。
『なもの』
広告
「これ、のからそのまま持ってきちゃったやつだな」
直がガムテープにカッターの刃を入れ、箱をけた。
を覗き込むと、分の記憶の澱が詰まっていた。
美咲が幼稚園の頃に描いた、顔から直接がえた父親の絵。
直が昔用していた、底の欠けた陶器のマグカップ。
そして――あの、私が玄関のゴミ袋に放り込み、結局捨てきれずにこの箱の底に押し込んだ、あのの写真てだった。
直がその写真てを拾いげた。
ガラスの奥で、ハワイの教会を背にした若い私たちが、ぎこちなく笑っている。
直は指先でフレームの埃をそっと拭った。
それから、私の方を向いた。
なら、彼は違いなく「おが決めていいよ」と言っただろう。
面倒な選択を避け、責任を私に押し付けるように。
けれど、直はそう言わなかった。
写真てを胸のに持ったまま、私の目をまっすぐに見つめて、静かにをいた。
「これ、捨てるか?」
私は直の顔を見た。
目元のじわも、髪の混じった髪も、の写真とは似ても似つかない。
裏切りも、失望も、逃げしたいほどの息苦しさも、すべて経験したあとの、歳の疲れた夫の顔だった。
私はしだけ悪く、微笑んでみせた。
「あなたが残したいなら、残せばいいじゃない」
直は首を振った。
逃げるような調子ではなく、真剣な目で言った。
「俺は、おに聞いてるんだ」
その言葉を聞いた瞬、胸の奥にあった最のさなしこりが、ふっとほどけていくような気がした。
誰かのためではなく。
役割のためでもなく。
私たちはようやく、目のにいる相と言葉を交わし始めているのだ。
「……じゃあ、残しましょう」
私が言うと、直の顔に、じんわりと温かな堵が広がった。
「リビングの棚の、番端っこでいいよ。たまに見えれば、それで分だから」
「そうだな」
直は嬉しそうに頷き、写真てをサイドボードの隅に置いた。
夕暮れのオレンジのが、ガラスの表面を柔らかく照らしていた。
私たちは再び段ボールのにしゃがみ込み、古いマグカップやくずをつずつにとって、仕分けを始めた。
「これ、まだ使えるか?」
「もう捨てていいわよ、取っがグラグラしてるじゃない」
「そうか? 接着剤でつければ――」
「やめなさいって」
会話はどこまでも平凡で、劇なの言葉なんてつもなかった。
それでも、私たちは確かに、目のしい活を、自分たちので選び直していた。