"十九年間、夫に翻訳されていた" 第17話
いノートの最初の
調からヶが過ぎ、季節は本格なを迎えていた。
の旬、私は世田からで分ほどれた、私鉄沿線の古い賃貸マンションで暮らしていた。
築のワンルーム。フローリングはし軋み、キッチンもコンロの狭いものだったが、向きのきな窓からは柔らかな陽が差し込んでいた。
具は最限だった。リサイクルショップで見つけたさな製のダイニングテーブルと、無印良品の折りたたみベッド。誰の趣でもない、私が自分の予算ので選んだ、私だけのだった。
夕方半、チャイムが鳴った。
インターホンの画面を覗くと、分いダウンコートを着て、マフラーに顔を埋めた美咲がっていた。
「いらっしゃい、美咲。寒かったでしょう」
ドアをけると、たいの匂いとともに、娘が部に入ってきた。
「……狭っ。でも、当たりはいいね」
美咲は靴を脱ぎながら部を見回し、し照れくさそうに笑った。世田をて以来、美咲と会うのはこれが度目だった。共通テストを翌に控え、予備の期講習の帰りにち寄ってくれたのだ。
夕は、肉じゃがと菜の浅漬け、それに炊きたてのご飯と豚汁にした。
さなテーブルにで向かいって座り、箸をめる。特別な会話はなかった。
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模試の判定がしがったこと、本史の号がなかなか覚えられないこと、予備の自習のが効きすぎて眠くなること。
美咲は杯にご飯を頬張りながら、のない常をぽつりぽつりと話した。
俊介の話題は、なかった。
現、美咲は世田のマンションで俊介とで暮らしている。週末には義母が事の作り置きに来ているらしいが、詳しいことは聞いていない。聞かないことが、今の私たちに必な距だと分かっていたからだ。
「……ごちそうさまでした。美しかった」
を回った頃、美咲はお椀を置き、お茶をんだ。
そして、し線を落としながら、膝ののハンドタオルを指先でいじり始めた。
「お母さん」
「ん?」
「あのね……今、泊まっていこうかとってたんだけど」
美咲は言い淀み、チラリと玄関の方を見た。
「やっぱり、今はお父さんのに帰るね」
胸の奥が、トクンとねた。
反射に、かつての私の考回が猛スピードで回転を始めた。
――どうして? 私の料理じゃ満できなかった?
――それとも、お父さんがで待っているのをだとったの?
――私に気を使って、何か言えない理由があるの?
「お父さんが寂しがってるから?」と、喉元までその言葉がかかった。娘のの裏にある「本当の理由」を詮索し、先回りして解説しようとする、骨の髄まで染み付いた呪いのような習慣。
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私は息を止め、テーブルので自分の指先をきつく握りしめた。
み込むんだ。
理由を探すな。を勝に与えるな。
美咲が言ったのは、「今はお父さんのに帰る」という事実、それだけだ。その言葉の額面以のものを、私が勝に捏造してはいけない。
数秒の沈黙の、私はふっと肩の力を抜いた。
そして、ただ穏やかに微笑んだ。
「わかった」
美咲が、弾かれたように顔をげた。
その瞳には、らかな戸惑いがあった。おそらく彼女は、私から「どうして?」「お父さんに何か言われたの?」と問い詰められることを覚悟していたのだろう。
「夜は寒いから、マフラーちゃんとしなさいね」
私はちがり、子の背もたれにかけてあった美咲のダウンコートを取って渡した。
「駅まで送るわ」
「……ううん、丈夫。駅、るいし」
美咲はコートに腕を通し、マフラーを巻き直した。
玄関のタタキにち、スニーカーの紐を結び直した娘は、ドアノブにをかけたところで、くるりと振り返った。
その顔には、先ほどまでの緊張は微もなかった。
憑き物が落ちたような、驚くほどれやかな、歳の女の飾らない笑顔だった。
「お母さん、肉じゃが、美しかったよ」
「ありがとう。受験勉、あんまり夜更かししすぎないようにね」
「うん。着いたら、LINEするね」
「ええ。気をつけて」
カチャリとドアがき、美咲の音が階段をリズミカルにりていった。
になった部に戻り、私は空になった器をシンクへ運んだ。温かいお湯で皿を洗い、布巾で気を拭き取る。すべての事が終わった、部のには静かなの夜の空気だけが満ちていた。
私はさなダイニングテーブルのに座った。
テーブルの片隅には、昨の仕事帰りに駅の文具で買ってきた、真しいノートが冊置かれていた。
何の変哲もない、A5サイズのいノート。
ビニールクロス張りでもなく、皮の装丁でもない。ただの、百円の、真っなノートだった。
私は引きしから黒の油性ボールペンを取りし、品のノートをいた。
インクの匂いすらしない、完全なの見き。
ページの最段に、私は今の付をき込んだ。
『』
そして、しだけ呼吸をえてから、最初のを滑らせた。
『今、美咲が父親のへ帰ると言った。』
ペン先を止める。
そのろに、「本当は私に慮したのだろう」とも、「父親への同だろう」ともかなかった。
美咲が何をい、何を抱えて帰っていったのか。それは美咲ののにだけある領域であり、私が侵していい所ではない。
ただ、言われた言葉を、言われた通りの事実としてそこに留める。
それだけで分だった。
私はペンを置き、いノートを静かに閉じた。
窓のでは、の夜がくの線を微かに揺らしていた。
もまた、私の言葉で、私の事実をきていく。
その静かな確信だけが、えた部のに、温かく灯っていた。