"あなただけ辞めていいわけないでしょ" 第1話
い封筒が置かれた卓
曜の夜半、玄関の鍵をけた。
いつもなら靴を脱ぎながらネクタイを緩め、居に入るなりリモコンでテレビをつける。ニュースの音声が流れ、湯気のつ台所から妻の由美が「お疲れさま」と声をかける。、寸分違わず繰り返されてきたがの帰宅景だった。
だが今夜、私はスーツの着を脱がなかった。鞄を廊のに置いたまま、音もなくリビングの引き戸をけた。
台所では、由美が背を向けて鍋をかき混ぜていた。豆腐とわかめの噌汁の匂いと、焼き鮭のばしい煙が換気扇に吸い込まれていく。ダイニングテーブルの端では、学の息子、翔太がスマホの画面を親指で弾いていた。
私はテレビのリモコンにはを伸ばさず、自分の定位置である革張りのダイニングチェアにく腰をろした。膝のに置いた両が、かすかに汗ばんでいる。
「由美、ちょっといいか」
喉の奥が引きつり、掠れた声がた。
由美はを止め、お玉を鍋の縁に当てたまま振り返った。し褪せた麻のエプロン姿。代の頃と変わらない細い首筋に、何本かの細い皺が刻まれている。
「何? もうすぐご飯にするから、洗ってきちゃって」
「いや。座ってくれ」
私のただならぬ気配を察したのか、スマホを弄っていた翔太がふと顔をげた。
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由美は濡れたをふきんで拭き、怪訝そうに眉を寄せながら私の向かいに座った。
私はスーツの内ポケットにを入れかけたが、何も取りさなかった。退職届は、今の午、事部の机のに置いてきた。もう元にはない。あるのは、勤めげたという空虚な事実だけだった。
私は由美の目をまっすぐに見つめ、息を吸い込んだ。
「俺、会社を辞めた」
部のの空気が、瞬で凍りついた。
くをるの微かな振だけが、を伝って伝わってくる。
由美の表はかなかった。驚いて叫ぶでもなく、りで顔を潮させるでもない。ただ、テーブルのに置かれた両の指先が、ピクリとさくねただけだった。
秒ほどの沈黙が流れた。それは私のので、もっともく、もっともたい秒だった。
宅ローンは、まだ残っている。翔太の私学の学費は、あと分まるまる残っている。退職はるが、自己都の期退職だ。満額には程い。
鳴られる覚悟はしていた。「何を考えてるの」「どうして相談もしないで」と罵倒され、座をしてでも謝る準備はできていた。
だが、由美のから最初にたのは、拍子抜けするほど淡々とした質問だった。
「……いつ付けで?」
「来末だ。を消化するから、社するのは実質あと週になる」
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由美は「そう」とさく呟いた。
そして、それ以何も言わずにすっとちがると、寝の方へ歩いていった。
私は妻のろ姿を見送りながら、胃のあたりがきりきりと痛むのをじた。りを通り越して呆れ果てたのだろう。寝に閉じこもり、泣くか、実に話をするに違いない。そうった。
だが、分も経たないうちに、由美は戻ってきた。
そのには、形号のい封筒が握られていた。
由美は私のに戻ると、湯呑みの横に、その封筒を音もなく滑らせた。
央に、黒い万の文字で、几帳面にこうかれていた。
『退職願』
私は目を瞬かせた。が分からなかった。
「……なんだ、これ」
由美は子に座り直し、私をまっすぐに見据えて言った。
「ちょうどよかったわ。私も、来末で辞めるつもりだったの」
のが真っになった。
「は……? お、何を言ってるんだ?」
私はわずちがった。子の脚がフローリングを擦り、な甲い音をてた。
「おが辞めてどうするんだよ! 俺が辞めるんだぞ!?」
すると由美は、え切った瞳で私を見げ、静かに言い放った。
「どうして? あなたは勝に辞めてよくて、私はだめなの?」