"七年前に死んだ母の退院" 第15話
最の曜のメモ
段ボールのいちばん底から、いビニール袋に包まれた冊のさな帳がてきた。
百円均で売られているような、のひらサイズの横罫のメモ帳だった。表は褪せたエンジで、角が擦れでく擦り切れている。
私は袋から帳を取りし、表をめくった。
最初のページに、母の跡で、こうかれていた。
『文さん連絡用』
臓が、トクンとくねた。
私は無識に息を止め、ページをめくった。
もしかしたら、ここには母の「本音」がかれているのではないかという恐怖があった。子供たちに対するみ言か、あるいは「自分がんだら文さんをよろしく頼む」というような、苦しい遺言めいた言葉が綴られているのではないかという疑が、私の指先を張らせていた。
しかし、そこに並んでいたのは、驚くほど無乾燥で、淡々とした活の記録だけだった。
『 文さん膝が痛いとのこと。湿布薬袋届ける』
『 サミットでお元の解体セール。素麺半分こ』
『 文さんのアパートの換気扇、油汚れ掃除。洗剤百円』
『 沼の百で菜分の。漬物にして持参』
付と、買い物の記録と、体調のメモ。
誰に見せるためでもない、ただのの常のやり取りだった。
そこには傷な言葉も、げさな謝も、未来への約束も切なかった。
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母はただ、曜の午にこの帳をき、根の値段を割り算し、薬の残数を確かめていただけだった。
ページをめくっていく。
文字はしずつ乱れ、くなるのあたりからは、母自の体調についてのメモがだけ混ざるようになっていた。
『 坂で息が切れる。ニトロペン用。真紀には言うな』
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
言わないでくれ、と母は自分に言い聞かせていたのだ。自した娘の荷になりたくないという、のようなプライド。それを隠すために、母はこの帳にだけ本当の呼吸をき残していた。
そして、帳の最のページに辿り着いた。
平成、曜。
母がくも膜血で倒れる、わずかの付だった。
そこには、太い鉛の文字で、たっただけが記されていた。
『来週の曜、文さんと駅の蕎麦をべにく』
私はそのを見つめたまま、けなくなった。
文字はそこで途切れていた。
次のページは、真っな空だった。
遺言もなかった。
「文さんを助けてほしい」という懇願もなければ、「娘をよろしく」という言葉もなかった。
母は、自分がぬことなど微もっていなかったのだ。
ただ、次の曜が来れば、いつものようにに乗り、文のアパートのドアを叩き、で並んで駅の蕎麦の簾をくぐるのだと、当たりのを疑っていなかった。
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母が遺したのは、たい責任でも、引き継ぐべき契約でもなかった。
ただの、果たせなかった「来週の約束」だった。
「……さん?」
ベッドの文が、私の顔を覗き込んできた。
私は慌てて瞬きをし、帳を胸元に引き寄せた。涙がこぼれそうになるのを、喉の奥に力を込めて押し留めた。
母は、私に文を託すつもりなど毛なかったのだ。
母にとって文との関係は、完結した自分自のの部であり、子供たちに背負わせるべき「負債」でも「遺産」でもなかった。が対等に、それぞれの孤独を持ち寄って過ごした、ただそれだけのだったのだ。
私はく息を吸い込み、帳を閉じた。
部の片付けは、すべて終わっていた。空になった段ボール箱を折りたたみ、壁際に寄せる。計の針は正午を指していた。私の役目は、本当にここで終わりだった。
「佐々さん、荷物は全部しました。ゴミ箱とティッシュは枕元に置いてあります」
私はバッグを肩にかけ、コートの襟を正した。
「それじゃあ……お元気で」
私がをげ、ドアノブにをかけただった。
「さん」
背から、呼び止められた。
振り返ると、文がベッドのに浅く腰掛け、シーツの端を両でぎゅっと握りしめていた。その顔は蒼で、唇がわずかに震えていた。
「あの……」
文は言葉を探すように線を泳がせ、それからを決したように私を見げた。
「さんは……もう、ここには来ないわよね?」
それは、恐る恐る差しされた、壊れ物のような問いだった。
「当たりよね。あなたにはあなたの仕事があって、活があるんだもの。お母さんのりいだからって、赤のの私に構ってる暇なんてないわよね。……うん、分かってるの。来てくれなんて言ったら、罰が当たるわ」
文は自分に言い聞かせるように何度も頷き、無理やり唇の両端を持ちげて笑ってみせた。
その卑屈なまでの慮と諦めが、私のを止めた。
ここで「ええ、もう来ません」と告げてちるのが、最も正しいの選択だった。兄の言う通り、義姉の忠告通り、線を引いて関係を断ち切るべきだった。
私は母ではない。
母の代わりにこの老の孤独を埋める義務など、私にはどこにもない。
私はドアノブからをした。
そして、振り返って文のに歩み寄った。
「佐々さん」
「はい……」
「私は、母の代わりにはなれません」
私ははっきりと、静かに言った。
「毎週曜にここに来ることもできないし、あなたの元引受になって入院の保証をすることもできません。それは役所のがやることです」
文はさく肩をすくめ、線を落とした。
「……ええ、そうよね」
「でも」
私は言葉を継いだ。
「来週の曜、私、たまたま仕事の振替休を取っているんです」
文が、怪訝そうに顔をげた。
「ここのくの駅に、打ち蕎麦の美しいおがあるって、さっき相談員さんが教えてくれました」
私は帳をバッグにしまい、文の濁った瞳をまっすぐに見つめた。
「お蕎麦、べにきませんか。……で」
文は鳩が豆鉄砲をらったような顔で私を見つめ、それから元をで覆った。
その瞳に、じわりと涙が滲みしてきた。
「私……が遅いけれど、いいの?」
「ゆっくり歩けばいいです。私も最、ヒールで歩くのが疲れるようになったので」
私がそう言うと、文は子供のように、何度も、何度もコクコクと頷いた。
窓のを、たいのが吹き抜けていった。
母のいない部で、私と佐々文の、最初の約束が交わされた瞬だった。