"七年前に死んだ母の退院" 第14話
底の欠けた湯呑み
活相談員が契約の控えを文の提げ袋にしまい、「お昼ごはんのにまた呼びに来ますね」と言って部をていくと、部には私と文のだけが残された。
廊の向こうから、別の入居者のテレビの音がかすかに漏れ聞こえてくる。
私は持ってきたつの段ボール箱をに置き、カッターナイフでガムテープを裂いた。
「佐々さん、荷物をしますね。はクローゼットに掛けておきます」
「あ……すみません、さん。自分でやりますから……」
文がちがろうとしたが、元がおぼつかず、よろめいてベッドのすりにすがった。退院したばかりで、まだ筋力が完全には戻っていないのだ。
「座っていてください。すぐ終わりますから」
私は努めて淡々とした調で言い、箱目の段ボールをけた。
は、アパートの箪笥に入っていた肌着や寝巻き、毛糸の靴などだった。どれも何度も洗濯されて毛羽っていたが、清潔に畳まれていた。私はそれらをクローゼットの棚に順番に移していった。
問題は、箱目の段ボールだった。
ちゃぶ台の周りや押し入れの袋からかき集めてきた、雑な用品の箱だった。
古びたアルミの急須、さな丸鏡、爪切り、そして聞に厳に包まれた瀬戸物がてきた。
聞を解くと、からつの湯呑みが現れた。
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つは、青い模様の、どこにでもある量産品の湯呑みだった。
そしてもうつは――見覚えのある、茶の益子焼の湯呑みだった。底の台のあたりが、米粒ほどさく欠けている。
私のが、ぴたりと止まった。
それは、私の母が以、父と栃へ旅にったに買ってきたものだった。母はあの湯呑みをたいそう気に入り、実の台所で毎のように使っていた。ある、私が洗い物をしているにを滑らせて底をしだけ欠けさせてしまい、「真紀はが雑なんだから」と母に言を言われた記憶が、鮮に蘇ってきた。
母がんだあと、実の遺品理をした際、あの湯呑みは見当たらなかった。兄が処分したのだとばかりっていた。
それが、なぜここにあるのか。
「……これ」
私が湯呑みを掌に乗せて呟くと、ベッドに座っていた文が、ハッとしたようにを乗りした。
「あ……それ、割れてないかしら」
文は配そうにを伸ばし、私ののにある湯呑みをおしそうに見つめた。
「枝さんがね、実から持ってきてくれたのよ。『娘に欠けさせられちゃったんだけど、捨てるには惜しいから、文さんの部で使って頂戴』って。……私、お茶をむはいつもそれだったの。に馴染んでねえ」
母は、捨てられなかったのだ。
娘が傷をつけた湯呑みを、ゴミ箱に放り込むことができず、曜に通うこの老の部へひっそりと持ち込んでいたのだ。
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段ボールの底には、まだ母の痕跡が残っていた。
母が好んで巻いていた、の毛糸のストール。
母が集めていた、スーパーのポイントカードの残骸。
母が旅先から買ってきたのであろう、観の絵葉。
文の部にあった「切なもの」の半分以は、私の母が彼女に渡した、ささやかな活の破片だった。
文はそれらを、母が突然姿を消してからの、誰にも見せることなく、あの暗いアパートの押し入れの奥で抱きしめ続けていたのだ。枝というがきて、自分と言葉を交わしていたという、唯の証として。
「さん、それ……持って帰られますか?」
文が、掠れた声で尋ねてきた。
その瞳は、叱られるのを恐れる子供のように揺れていた。
「お母様の形見でしょう。私が持っているのは、おかしいものね……」
私は湯呑みの、欠けた底の触を親指の腹で確かめた。
ザラリとした陶器のの触が、指先を通して胸の奥へと伝わってきた。
「……いいえ」
私は首を横に振った。
「これは、母が佐々さんにあげたものです。母の持ち物じゃありません。あなたの湯呑みです」
私は湯呑みを、部のさなサイドテーブルのに静かに置いた。
文の目から、粒の涙がぽろりとこぼれ落ち、フリースの膝のに染みを作った。