"あなただけ辞めていいわけないでしょ" 第6話
辞めても幸せにはなれない
リビングの引き戸をけると、台所から湯気がちっていた。
由美は菜と豚肉のね鍋を作っていた。コトコトと煮える汁の匂いが漂っている。見すると、昨までと何も変わらない、どこにでもある平凡な庭の夕餉の景だった。
だが、テーブルの端には、昨夜由美が突きつけてきたあのい『退職願』の封筒が、依然として置かれたままになっていた。
私は鞄をに落とすように置き、玄関から持ってきたグリーンのチラシをテーブルの央に叩きつけた。
「由美、これは何だ」
由美は菜箸を持ったまま、チラシに線を落とした。表はかない。
「見た通りよ。求票」
「千百円だと?」
自分でも抑えられないほど、トゲを含んだ声がた。昼、宿のオフィスでプライドをズタズタにされた苛ちが、妻の無防備な現実にぶつけられていく。
「週、働いて、にいくらになる? 万にも満たないぞ! そんな遣い稼ぎみたいな仕事を探して、どうやってこのを維持する気だ!?」
「維持しなきゃいけないの?」
由美はをめ、静かにこちらを向いた。
「維持って、何を? あなたの見栄? それとも、こののローン?」
「翔太の学費だよ!」
私は声を荒らげた。
「あいつの授業料が百万かかるんだぞ! 俺が今、どんないでエージェントを回ってきたかってるのか? の男が再就職するのがどれだけ獄か、しは考えたことがあるのか!? 俺が必で稼ぎを探してる横で、おは千円のままごと遊びかよ!」
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言ってはいけない言葉だと、からた瞬に分かった。だが、止まらなかった。
由美は鳴り返さなかった。ただ、く、くため息をつき、エプロンでを拭いた。
「今ね、職の柴田さんに会ってきたの」
唐突にた名に、私は言葉を詰まらせた。柴田さん。由美が勤める病院の医療事務で、に歳で正職員を辞め、週のパートに切り替えた先輩女性だ。
「柴田さんに言われたわ。『辞めたら自由になれるなんてっちゃダメよ』って」
由美の声は、驚くほど平坦だった。
「柴田さんもね、毎のレセプト業務と医師の横暴に耐えられなくなって、勢いで正職員を辞めたの。でもね、収入が半分以になって最初に来たのは、解放じゃなくて、スーパーのレジで百円の豆腐を選ぶときの惨めさだったって」
私は黙って由美を見つめた。
「ご主は最初、『無理しなくていい』って言ってくれたそうよ。でも半も経つと、ちょっとした費のたびに『誰ので活できてるとってるんだ』って顔をするようになった。夫婦の会話は全部おの計算になって、最は庭内別居よ」
由美はテーブルのチラシを指先でなぞった。
「柴田さんに言われたわ。『辞めても自に幸せにはなれない。おがなくなる恐怖は、理尽な司にをげるよりずっと惨めよ』って」
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「……分かってるじゃないか」
私はし声を落とし、諭すように言った。
「分かってるなら、どうしてそんなパートを探すんだ。頼むから現実を見てくれ。おの今の職なら、ボーナスだってる。俺が次の仕事を見つけるまで、あとしだけ踏みとどまってくれれば――」
「分かってないのは、雅さん、あなたの方よ」
由美は顔をげ、私の目をまっすぐに見据えた。その瞳には、涙の粒も浮かんでいなかった。
「柴田さんはね、最にこう言ったの。『それでも私は、の席に戻りたいとはわない』って。あんな所でを殺して定まできるくらいなら、百円の豆腐で悩む方がまだ自分のをきてる実があるって」
由美は歩、私にづいた。
「千百円の仕事なら、私は定で帰れる。誰の嫌も取らなくていい。夜に病院からの呼びしに怯えることもない。……私はね、もう度と、誰かのを支えるための台には戻らないの」
「じゃあ、このはどうなるんだよ!」
私の叫びが、狭いリビングに虚しく反響した。