"解雇された職人が未明に餡を練る" 第9話
ただ、苦しい沈黙と、属がぶつかりう荒々しい音だけが漏れてきていた。
私が裏から厨に入ると、烈な蒸気の気と共に、異様な匂いがをついた。 甘くばしいはずの豆の匂いに、微かに焦げたような、ツンとした酸が混ざっている。
「……健太」
子さんのたい声が響いた。 鍋のにち、べらを杖のように握りしめて肩で息をしている健太さんの元に、つの平バットが置かれていた。 そこに流し込まれた餡は、がくすみ、表面がボソボソとひび割れていた。
「これは、何だい」
「……漉し餡です」
「これが漉し餡に見えるのかい? 豆の渋が抜けきっていない。がすぎて、芯が煮えるに皮が破れてデンプンが流れている。……を炊いたようなだよ」
「母さん……!」
「昨、佐野さんが作った餡と、何が違うか言ってみなさい」
健太さんの顔が、屈辱で真っ赤に染まった。 血った瞳が、母親を激しく睨みつける。
「佐野さん、佐野さんって……! あのはやってるんだぞ! 俺がたったヶで、同じものを作れるわけないだろ!」
「作れないなら、簾をくぐるんじゃないよ!」
子さんの鋭いが、厨の壁を震わせた。 普段の物静かな奥様からは像もできないほどの、肺腑を抉るような声だった。
「誰が頼んだい? 誰があなたに、このを継いでくれと頼んだ!? 『母さんが変そうだから』『男だから』……そんな途半端な施しのような気持ちで、の簾のにつんじゃないよ! この餡をべただけで、客は逃げていく。
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おのその途半端な同が、このを殺すんだ!」
健太さんは言葉を失い、喉をヒューヒューと鳴らした。 息がうまく吸えないようだった。 胸を押さえ、ずさりし、作業台の角に背を打ち付ける。
「……美咲さん」
子さんは息子から線をすと、私の方を見ずに言った。
「そのバットの餡、全部捨てなさい。豆の問に話して、丹波の特級をもう袋追加で持ってこさせて。……今夜、もう度最初から仕込ませます」
「奥様、健太さんはもう朝からちっぱなしです! し休ませないと――」
「休む暇があるなら、をかしなさい」
子さんはそれだけを吐き捨てると、厨をていった。
残された作業で、健太さんは力なくに崩れ落ちた。 私は慌てて駆け寄り、彼の肩を支えた。
「健太さん、丈夫ですか……?」
「……ハハ」
健太さんのから、乾いた笑いが漏れた。
「捨てろ、か。……丹波の特級豆、キロいくらするかってるかい、美咲ちゃん。俺のの料よりいんだよ。それを……だってさ」
「健太さん……」
「俺、何やってるんだろうな。会社辞めて……同僚には『実の老舗を継ぐ』なんて格好つけて……本当は、親戚の話から逃げたかっただけなのに。母さんに『ありがとう』って言われたかっただけなのに……」
涙はていなかった。 ただ、完全に擦り切れた魂が、から言葉となってこぼれ落ちているだけだった。
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そのの夜、私はに残ろうとしたが、子さんに厳しく追い返された。 「の朝に来なさい。それまでは誰も厨に入れてはならないよ」
吉な胸騒ぎが消えなかった。
そして、その予は最悪の形で現実となった。
付が変わった午過ぎ。 アパートで浅い眠りのにいた私の元で、スマートフォンの激しい着信音が鳴り響いた。
画面を見ると、柳堂の固定話の番号だった。
「はい、柳田です!」
『……美咲、ちゃん……』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、息絶え絶えの健太さんの声だった。 背景で、けたたましい非常ベルの音が鳴り響いている。 ジリリリリリリリ――ッ!
『は……は消した……けど……すまない、が……かない……』
「健太さん!? 健太さん!!」
返事はなかった。ゴト、と受話器が落ちる音がして、通話が切れた。
私は着の着のままで部をびし、夜のを狂ったように自転で疾した。 臓が破裂しそうだった。 商に差し掛かると、すでにくから煙の匂いが漂ってきていた。 菓子の甘いりなどではない。物が黒焦げになり、化学薬品のようにツンとを刺す、あの吉な災の匂いだ。
柳堂のに滑り込むと、裏の換気扇から濛々とした煙が夜空に吐きされていた。