"解雇された職人が未明に餡を練る" 第7話
灯がまばらな坂をりきったところに、昭の終わりに建てられたモルタル塗りの階建てアパートがあった。
階の角部。郵便受けには「佐野」とだけきされたテープが貼られている。 磨りガラスの窓の隙から、いかりが漏れていた。
私は階段の脇に自転を止め、を決してチャイムのボタンを押した。
ピンポーンという乾いた音が、静かな夜の空気に吸い込まれていく。 音がづき、ドアチェーンがチャリと音をてた。
「……どなたですか?」
「藤子さん。美咲です」
ほんの数秒、沈黙が落ちた。 やがて、ドアが細くいた。チェーンがかかったままの隙から、藤子さんが驚いたように顔を覗かせた。 普段のい調理ではなく、褪せた豆のフリースを着ていた。髪をろした藤子さんは、厨にいるよりもずっとさく、老けて見えた。
「美咲ちゃん……こんなに、どうしたの?」
「話を聞いてほしくて来ました。……のことです」
藤子さんの表が瞬で曇った。
「のことなら、もう私には関係ないわ。昨も言ったでしょう」
「関係ないわけないじゃないですか! 今朝だって、あんなに忍び込んで餡を作ってくれたくせに!」
私が叫ぶように言うと、藤子さんは慌てて差し指をに当て、周囲の部を気にするように線をらせた。
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「声がきいわよ……」
「けてください。しだけでいいんです」
藤子さんはくため息をつくと、観したようにチェーンをし、ドアを引いた。
畳ひとの部は、驚くほど物がなかった。 さなテレビと、畳まれた布団、座卓のに置かれた湯呑みがつ。 もの、朝から晩まで柳堂の厨にを捧げてきたの暮らしとは到底えないほど、活の気配が希だった。
「お茶もせなくてごめんね。今、お湯を沸かすから」
「いいんです、お構いなく」
私は座卓のに正座し、藤子さんが台所につ背を見つめた。
「藤子さん。今の、めちゃくちゃでした。商のたちはみんな、奥様が息子さんのために藤子さんを追いしたって、酷い噂をてています。健太さんも、全然追いついてなくて……奥様は、健太さんに餡を炊かせるつもりです。あんなの、無茶です」
薬缶の湯が沸くシュンシュンという音だけが、狭い部に満ちていく。 藤子さんはを止め、湯呑みにお湯を注ぐと、私のに置いた。
「健太くん、顔悪かったでしょう」
「……はい。まるで何かに怯えているみたいでした」
藤子さんは座卓にをつき、寂しそうに目を伏せた。
「あの子はね、根が優しすぎるのよ。昔からそう。先代がくなったも、だった健太くんは『僕がを辞めてを伝う』って言いしたの。
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奥様がそれを泣きながら鳴りつけて、無理やり学までかせたのよ。『このはおの枷にするためにあるんじゃない』ってね」
「じゃあ、どうして健太さんは戻ってきたんですか? 仙台の会社を辞めてまで……」
「奥様の腰が悪くなったからよ」
藤子さんは湯呑みの縁を指でなぞった。
「の、奥様が調理で倒れたでしょう。美咲ちゃんが入るのことだけど。あの、親戚の誰かが健太くんに余計なことを言ったのよ。『母親がで苦労してるのに、男がくでサラリーマンなんてやってて恥ずかしくないのか』って。健太くん、責任をじちゃったのね。自分しかいないって」
胸の奥が、たいで満たされていくような覚がした。 親孝の美談。誰もが疑わない、美しい美徳。 だが、その内実は――。
「健太さんは、菓子をやりたくて戻ってきたんじゃないんですか?」
「やりたいわけないじゃない」
藤子さんの声は、信じられないほどきっぱりとしていた。
「あの子は物流の仕事が好きだったのよ。全国から届く荷物をどう捌くか、効率よく届けるにはどうするか、楽しそうに話してくれたわ。お菓子なんて、あの子にとっては『母親を縛り付けてきた呪い』みたいなものよ。子どもの頃から、曜も休みも、母親は厨からてこなかったんだから」
「だったら……だったら、どうして奥様は止めなかったんですか? 息子の気持ちが分かっていたなら、戻ってくるのを断ればよかったじゃないですか!」