"解雇された職人が未明に餡を練る" 第3話
私ののは完全に混乱していた。 忍び込んでレシピを盗むようなコソの姿ではない。 仕込みの順、具の配置、の入れ方――すべてが「柳堂の」を完璧に仕げるための、祈りにも似た献そのものだった。
の板が、私の体でわずかに「ギシ」と音をてた。
その微かな音に、藤子さんのが止まった。 べらを鍋の縁に預け、ゆっくりと振り返る。
湯気ので線がぶつかった。 藤子さんの目が瞬だけ丸くなり、それから困ったように細められた。
「……美咲ちゃん」
「藤子さん……どうして……」
私は厨にを踏み入れた。元がおぼつかず、ステンレスの作業台にを突いた。
「クビになったんじゃ……奥様にあんなこと言われて、どうしてここにいるんですか? 鍵だって、私に返したはずなのに……」
藤子さんは拭いの端で額の汗を拭うと、元を指さした。 勝の脇にある配盤の隙。 そこに、古びたスペアキーがぶらがっていた。
「から、ここにあるのよ。先代がくなった、鍵を失くした奥様のために、私が鍵を作って隠しておいたの」
「そんなこと聞いてるんじゃありません! なんで、こんなことしてるんですか!」
わず声がきくなりそうになり、私は慌てて元をで覆った。 階には、子さんと健太さんの居がある。物音をてれば、すぐに気づかれてしまう。
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藤子さんはガスの元栓を微かに絞ると、ちる湯気をで払いながら、さく息を吐いた。
「昨からに浸けてあった豆、そのままにしておいたら傷んじゃうでしょう。この豆、丹波のいいやつなのよ。問さんが周のためにって、特別に融通してくれたの。腐らせたら、罰が当たるわ」
「そんなの……そんなの、残されたたちの責任です! 藤子さんが被る必なんてないじゃないですか! あんな言われ方をして追いされたのに……」
悔しさと条理さで、私の目から涙が零れそうになった。 昨夜の子さんのたい声と、無表に台帳をつけていた横顔が脳裏に蘇る。 あれほど尽くしてきたを、虫けらのように追いしておきながら、そのが夜に作った餡で周を祝うなんて、そんな残酷な話があっていいはずがない。
「藤子さん、もうやめてください。を止めて、緒に帰りましょう。こんなの、奥様に都よく使われているだけです!」
私が藤子さんの割烹着の袖を引こうとした、藤子さんは静かに私のを押し返した。 そののひらは、のを吸い込んで驚くほどく、指先には無数の傷の痕があった。
「美咲ちゃん。この餡ね、今練りげておかないと、の薯蕷饅ににわないの」
「だから、それは健太さんがやればいいんです!」
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「健太くんには、まだ無理よ」
藤子さんの声は、驚くほど静かだった。りも、憐れみも含まれていない、ただ厳然たる事実を告げる声だった。
「あの加減はね、やそこらじゃ体に入らない。健太くんがでやったら、底を焦がすか、豆を潰して糊にしてしまう。そうしたら、予約してくれた百のお客さんに、板倒れの偽物を配ることになる」
「でも……!」
「私はね、奥様のためにやってるんじゃないのよ」
藤子さんは再びべらを握り、鍋の底をゆっくりとさらい始めた。 滑らかに練りがった豆が、艶やかな黒の波を作って持ちがり、ぽってりと落ちる。 完璧な仕がりだった。砂糖の照りが湯気のに溶けし、甘やかな気が腔を満たす。
「このの餡をね、汚したくないだけ」
そう言った藤子さんの横顔は、頑なで、どこか痛々しいほど澄んでいた。
それから分の、私は何も言えずにただち尽くしていた。 藤子さんは巨な鍋から、角いバットへと際よく餡を移していく。 べらで平らにならし、乾燥を防ぐための濡れ布巾をかける。 その作のすべてに切の無駄がなく、の歳が染み付いた職の体が、淡々と仕事を終わらせていく。
午分。 の空がみ始め、の向こうで聞配達のカブのエンジン音が響き始めた。
藤子さんは割烹着を脱ぎ、く畳んで自分のトートバッグに押し込んだ。