"解雇された職人が未明に餡を練る" 第2話
「美咲さん」
帳から顔もげずに、子さんが言った。
「片付けが終わったら、今はもう帰りなさい。戸締りは健太にやらせるから」
「……奥様。あの、佐野さんは」
「からは、あのの席はないよ。それだけのことです」
万を置くカチリという乾いた音が、静かな内にさく響いた。 厨の奥では、健太さんが、流し台に溜まった皿を洗っていた。 蛇から勢いよくるの音に紛れて、カチャカチャと陶器がぶつかりう規則な音が聞こえる。 様子を見にこうとした私の袖を、子さんのややかな線が制した。
「は朝にけます。仕込みがあるからね。遅れないように」
その夜、アパートに帰ってももできなかった。
柳堂の創業周記として受けている「ね」は、町内会や取引先から百箱を超える予約が入っている。 の漉し餡は、産の特級豆を回茹でこぼし、汁を極限まで抜きながら、豆のを殺さずに渋みを抜くという、気のくなるような処理が必だ。 しでもをめれば焦げ付き、めれば豆が締まって舌触りがザラつく。 健太さんは仙台の学をてからずっと物流会社で事務をしていたで、菓子作りに関しては、子供の頃に伝っていた記憶がある程度だ。先帰郷してからは藤子さんの横でメモを取っていたが、まだで餡を練りげたことなど度もない。
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が潰れてしまう。 周を迎えたその瞬に、簾にを塗ることになる。 その恐怖と焦燥で、布団のにいても臓の鼓がの奥で激しく鳴り響いていた。
計の針が午半を回った、私は耐えきれずにベッドから起きがった。
しでもくにき、豆をにつける準備だけでも伝わなければ。 もし健太さんが厨で途方に暮れているなら、私がの番を伝うしかない。
自転にび乗り、灯だけが青くる静まり返った商を駆け抜けた。 肌を刺すような午の気が、パジャマのに羽織ったコートの隙から容赦なく入り込んでくる。
柳堂の表のシャッターは、くりたままで密やかに沈んでいた。 私は自転を止め、通用がある裏へと回った。
そこで、が止まった。
勝の曇りガラスの向こうに、淡い黄いかりが灯っていたのだ。 換気扇が、油の切れたい音をてて静かに回っている。 そして、の湿った空気に混ざって漂ってきたのは――甘く、く、どこまでも澄んだ、煮えたばかりの豆の匂いだった。
健太さんが、もう起きして作業を始めているのだろうか。
ほっとして胸を撫でろしながら、私はそっと勝の引き戸にをかけた。 普段なら内側から鍵がかけられているはずの戸が、わずかに指本分、いていた。
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音をてないように隙からを覗き込んだ瞬、私の息が止まった。
湯気がもうもうとち込める暗い厨。 連式のガス台のにっていたのは、健太さんではなかった。
使い古されたい割烹着を着て、髪をきっちりと拭いで包み込んだろ姿。 の胸のさまである巨な砲鍋の縁にを添え、柄のべらを両でしっかりと握りしめている。
佐野藤子さんだった。
「……え」
声になり損ねた空気が喉から漏れた。 藤子さんは、背を丸め、体をべらの先に預けるようにして、底に沈むい豆をリズミカルに返していた。 ザッ、ザッ、とが鍋の底を擦るな音が、規則正しく響いている。
湯気の向こうに見える横顔は、昨夜の宴席で見せた表とはまるで違っていた。 額には粒の汗が浮かび、鏡のレンズがく曇っている。 力をわずかに絞り、鍋肌の泡のち方を見極めながら、濡れ布巾で鍋の縁についた沫を丁寧に拭き取る。 その連の作には、、毎この所で積みねてきた者にしか宿らない、迷いのない美しさがあった。
昨夜、酷に切り捨てられたはずのが、なぜここにいるのか。 「から来なくていい」と告げられたはずのが、なぜ夜けの暗で、誰にも見られないまま、番く過酷な仕事をこなしているのか。