"母が残した最後の住所" 第3話
親族による引き取りが難しければ、児童養護施設を含めて今の活を考えなければならないという。言い方は優しかったが、「この部をることになる」というだけは理解できた。
その夜。
俺は母の遺品を片づけ始めた。
は驚くほどなかった。仕事で着ていたポロシャツが5枚、のコートが1着、古い着が数枚しかない。財布からはスーパーのポイントカードと、俺が学を卒業したの写真、それに2のラーメンのレシートがてきた。
《チャーシューメン 1》《替玉 1》
母は、あののレシートを2も残していた。
最に押し入れの奥から、父が作った桐の箱をした。
膝へ載せた瞬、母が何度も同じ姿勢で箱を眺めていた理由をりたいとった。
蓋をけた。
あの写真が入っていた。
そして、そのに。
学5のにはなかった、つ折りのいが枚入っていた。
には所だけがかれていた。隣ののにある町名と番で、表にはの名すらない。裏返すと、母の丸い字で文だけかれていた。
《へ。本当にになっただけ、この所へきなさい。》
何度読んでもは変わらなかった。母はこの所をっていた。しかも、いつか自分がいなくなり、俺がになる能性まで考えて、このを残していた。
「なんできてるに言わなかったんだよ」
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誰もいない部で、わず声がた。
頼れるがいるなら、母自が頼ればよかった。朝からスーパーで働き、夜まで洗いにち、指が割れるまで働く必などなかったはずだ。なのに母は何も言わず、このを箱へ入れたままんでしまった。
所を調べるのにはかかった。学の図にあるパソコンを借りて図をくと、目はの側、へ向かう坂の先にあった。周囲のよりらかにきな緑が表示されているのを見て、図の先が「その辺りは昔からのきなお敷がいところよ」と教えてくれた。
を本乗り継ぎ、さらにバスへ乗れば片150分。交通費は往復で2千円くかかり、俺にとっては数分の費だった。それ以に怖かったのは、そこへって「らない」と言われることだった。
かなければ、まだ能性は残る。
この世のどこかに、自分をっているがいるかもしれないとえる。
けれどの職員から、翌週には今の活について具体に決めると告げられた。同じに管理会社からも、契約者である母がくなったため部をどうするのか連絡してほしいというが届いた。
俺は母の最の言葉をいした。
何があっても、きなさい。
曜の朝、制を着た。私より番まともだったからだ。
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切れたスニーカーの紐をく結び直し、母の写真と所のを財布へ入れた。
バスをりてからも坂は続いた。両側にはい塀が並び、との隔が俺のんでいたアパート棟分より広い。やがての突き当たりに、写真と同じ造りのが現れた。
柱には、
《朝倉》
と彫られていた。
俺はち尽くした。
写真に写っていたもそこにある。20ほどのを経て幹は太くなっていたが、枝の伸び方まで見覚えがあった。
無理だとった。
こんなと母の暮らしが結びつかない。
この所は何かの違いだ。
俺は踵を返した。
歩ほど歩いただった。
背で、いが擦れる音がした。
振り返ると、巨な扉がゆっくりいていた。
い砂利のの央に、の老がっていた。黒い背広にい袋をはめ、70歳くに見える。老は俺を見た瞬に目を見き、震えるを元へ当てた。
それから。
く腰を折った。
「坊っちゃま。お待ちしておりました」
が分からなかった。
「あの、違いだといます」
歩がった俺に、老はをげたまま答えた。
「いいえ。違えようがございません。このの鍵は、20、度もかけておりません」
俺は母のメモを差しした。
「これが遺品のにあったんです。母は先、くなりました」
老の顔から血の気が引いた。
「……千鶴お嬢様が?」
母の名をっていた。
老は柱へをついたまま膝を折り、い砂利のへ崩れるように座り込んだ。