"母が残した最後の住所" 第1話
俺の名は真野、14歳。父は俺が5歳のにくなり、それからは母の千鶴とで、にい町の古い造アパートで暮らしていた。畳と畳半、それにさな台所があるだけの部で、階段は必ず段目が鳴った。
父は建具職だった。障子や欄、引き戸など、のでが毎触れるの部分を作る仕事をしていたらしい。築ので仕事をしていた、吹き抜けのから転落してくなったと、俺がしきくなってから母に聞かされた。
父の顔そのものは、写真のでしか覚えていない。それでも材のを通ったの乾いたのりだけは、議なくらい懐かしくじた。に残っていた勉机の引きしや台所のさな棚も父が作ったもので、母は傷がついても絶対に捨てようとしなかった。
母はスーパーの惣菜売りで朝から夕方まで働き、度へ戻って夕を作ると、週に何度か居酒の洗いへていった。になると指先が割れて絆創膏だらけになっていたが、俺のでは「仕事の女はみんなこんなものよ」と笑っていた。俺はをたらすぐ働き、母に夜の仕事だけでも辞めさせようと本気で考えていた。
うちは違いなく貧乏だった。制のシャツは母の同僚の息子のおがりで、した記憶も片で数えられるほどしかない。
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学の卒業式のに駅のラーメンへ入った、母は自分のチャーシューを枚とも俺の丼へ移し、「お母さんは、あんたがべるのを見てる方がおいしいの」と替え玉だけを頼んだ。
そんな暮らしでも、母が妙にこだわっていたものがつだけあった。毎の噌汁だった。おかずがちくわだけのでも噌汁には豆腐、わかめ、そのかった野菜と、必ずつの具が入っていた。
「つでもつでも緒だろ」と俺が言ったことがある。
「違うの。つあると、ご飯をちゃんとべた気になるのよ」
母はそう言って笑った。
噌も、いつも同じものを買った。スーパーの棚にはもっとい商品が並んでいるのに、母は赤いのラベルが貼られたしい噌だけは値段を見ても戻さなかった。卵の10円には迷うくせに、噌だけには迷わないことが、子どもの俺には議だった。
その噌汁について、俺にはつだけ忘れられない記憶がある。
父がくなったのだった。5歳だった俺が朝起きると、母は仏壇のにいこと座っており、俺がろで積みを広げても振り返らなかった。しばらくしてちがり、何も言わずに朝飯を作った。
そのの噌汁は、それまでんだものとらかに違った。塩気の角が丸く、み込んだあとに舌の奥へわずかな甘さが残った。
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俺は「うまい」と杯み、母に何の噌なのか尋ねた。
母は笑った。
けれど、目が赤かった。
「気のせいよ。いつもと同じ」
それから何度作ってもらっても、あの朝とまったく同じにはならなかった。子どもの舌なんて当てにならないのだろうと、いつしか俺自も忘れるようになった。
父が残したものので、母が特に事にしていたのは桐の箱だった。結婚したに父が端材を集め、で作ったものだという。蓋を閉じると最に空気が抜けるようなさな音がして、母は「お父さん、この音がるまで何度でも削り直したのよ」と嬉しそうに教えてくれた。
その箱を、母はに何度か押し入れの奥から取りした。蓋をけるわけでもなく、膝のへ置いて暗い部でいこと眺めている。俺がを尋ねると、「昔のもの。したものじゃない」と笑うのだが、その笑い方だけは普段とし違っていた。
学5の頃、度だけ母が呂へ入っている隙に箱をけたことがある。には古い写真が枚あり、20歳くらいの母と、背のい痩せた男がきなのにっていた。造りの柱の向こうには広い庭と派な根が見え、母と男のにはが入れるほどの距があった。
男が誰なのかは分からなかった。
母の実について、俺は何もらなかった。
祖父母の話も兄弟の話も聞いたことがなく、学の頃に「母さんのお母さんは?」