"昨日まで正しかった教科書" 第2話
そのの午、はへ呼ばれた。の岸は50代半ばで、戦争もからの指示には忠実なだったが、終戦は以より数がなくなっていた。机のには県から回ってきた通達と、赤鉛で印をつけられた教科が何冊もねられていた。
「の坂井君が墨塗りを拒否しているそうですね」
「だけです。ほかの子どもは作業しています」
「だからいいという話ではありません。が教師の指示へ疑問を持てば、ほかの子も同じことを考えます」
はその言葉を聞きながら、胸の奥に引っかかるものをじた。しまで、別のことを疑わないように子どもたちへ教えていた。今度は、昨まで教えていたことを疑わず消せと言っている。
「子どもに考えさせるなということでしょうか」
が尋ねると、岸は疲れた顔をした。
「そういうではありません。ただ、今は学そのものが混乱しているんです。何を教えてよくて、何を教えてはいけないか、私たちだって全部分かっているわけではない」
その言に、は黙った。
ですら分からない。
ならば午、誠の問いに答えられなかったのも当然なのかもしれない。
それなのに自分は、「分からない」とだけは言えなかった。
教師なのだから。
子どもよりっていなければならない。
広告
正しい答えを持っていなければならない。
ずっとそうってきた。
「坂井君のお兄さんは、まだ戻っていないんでしょう」
岸が言った。
は頷いた。
誠には8歳の兄・健がいた。
20歳で召集され、のにをた。終戦からひとく経っても帰っておらず、どこにいるのかも分からない。族へ届いた最の便りはで途絶えていた。
健はにとっても、よくる青だった。
かつてこの学へ通い、卒業はの畑を伝いながら夜には本を読むようなだった。教師が言ったことへすぐ「なぜですか」と尋ねるため、若かったは扱いにくい徒だとったこともある。
征の。
健は誠を連れて学へ挨拶に来た。
「先、弟をお願いします」
まだ普段着だった。
健は誠のをし乱暴に撫でた。
「先の言うことをよく聞けよ。学で習うことはちゃんと覚えとけ」
誠は「分かってるよ」と嫌そうにを払った。
は笑いながら、
「おも向こうでしっかりやれ」
と答えた。
今になって考えると。
何をしっかりやるのか。
自分でもよく分からなかった。
健は帰り際、度だけ舎を振り返った。
あのの横顔が、には妙にはっきり残っていた。
「庭にも話してもらった方がいいでしょう」
岸は言った。
「母親に来てもらって、学の方針を説してください。
広告
坂井君も、のから言われれば納得するかもしれない」
翌の午。
誠の母・静子が学へ呼ばれた。
43歳。
夫は肺を患い、い畑仕事はほとんどできない。の働きになるはずだった男の健が戻らないため、静子は朝から畑へて、帰れば夫の世話と事をしていた。
から事を聞いても、静子は学へ謝らなかった。
「教科を見せてもらえますか」
が誠の本を持ってきた。
すでに何ページかは黒く塗られている。
けれど、問題になったところだけがいままだった。
静子はいそのページを見ていた。
「墨を貸してください」
「母ちゃん!」
横にいた誠が声をげた。
静子はを持った。
「やめてよ」
誠は母の袖をつかんだ。
「兄ちゃんが読んだのと同じところだよ」
静子のが止まった。
「健兄ちゃん、ここ信じてたんだよ。学で習ったことは違ってないって言ってたんだよ」
誠の目に涙が浮かんだ。
「それまで消すの?」
静子はしばらく息子を見ていた。
それから静かに答えた。
「だから塗るんだよ」
誠はが分からなかった。
「なんで」
「健が信じたから」
「余計分かんないよ」
静子はを机へ置いた。
「兄ちゃんはね、何も考えなかったんじゃない。学で習って、先に教わって、に言われて、それを正しいとってていった。でも、もし違っていたものがあったなら、誠まで同じものに縛られなくていい」
「じゃあ兄ちゃんは違ってたの?」