"昨日まで正しかった教科書" 第1話
昭209。終戦からまだひとも経っていない野県のあいでは、朝晩の空気だけが急にえるようになっていた。国民学の古い造舎は昨までと何も変わらず、廊には乾いた板の匂いが残り、庭の端では蜩が途切れ途切れに鳴いている。けれどの教だけは、朝から何かを待っているような妙な静けさに包まれていた。
12歳の坂井誠が教へ入ると、教壇のに見慣れないものが並んでいた。担任の信夫は国語と修の教科を何冊も積み、その横に黒い墨を入れた皿と数本のを置いている。いチョークの跡が残る黒板には、つい数週まで子どもたちが声をそろえて読んでいた言葉の部がく残り、はそれを消そうともせず、始業の鐘が鳴るまで何度も教科のページを確かめていた。
「今は国語と修の教科をしてください」
いつもよりい声だった。
子どもたちは机のから教科を取りした。そのものが貴な代で、兄や姉から譲られた本を使っている者もなくない。誠の教科も、8歳の兄・健が以使っていたものだった。
は冊をき、ページ番号を読みげた。
「先が言うところを、墨で塗ってください」
最初、誰もが分からなかった。
の席の女・千鶴がを挙げた。
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「先、塗るって、違えたところを直すんですか」
は首を横に振った。
「違います。そこにいてある文字が読めなくなるように、から黒く塗るんです」
教のあちこちでをめくる音が広がった。
やがて、がさく言った。
「先、ここ、先暗記したところです」
「そうだね」
「朝礼でも読んだところですよね」
「そうです」
「それを消すんですか」
はほんの瞬だけ黙ったあと、「そうです」と答えた。
子どもたちは顔を見わせた。昨まで切だと言われていた言葉を、今は自分ので見えなくする。理屈を説されてもいないのに、それだけを命じられることが、誠にはひどく自然にえた。
「始めなさい」
が言った。
おそるおそるを取った子どもたちが、いのへ墨を引いていく。、、。乾くの墨はを反射し、昨まで目で追っていた文章が、次々と黒い帯へ変わっていった。
誠だけは、を取らなかった。
机のには、兄から譲られた教科がかれている。ページの端には健が子どもの頃につけた鉛の線や、さな振り仮名が残っていた。
「坂井」
が呼んだ。
誠は顔をげた。
「塗りなさい」
「嫌です」
教が静まり返った。
普段の誠は、教師に逆らうような子どもではなかった。成績はほどで、運も特別得ではなく、どちらかといえば目つことを嫌う。
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自、最初は聞き違いかとったらしく、し眉を寄せた。
「何?」
「塗りません」
「坂井、これは学の指示です」
「でも先」
誠は教科の部分を指した。
「昨まで、ここは事だから覚えろって言ったじゃないですか」
誰も笑わなかった。
「毎朝みんなで読ませたじゃないですか。僕、でも兄ちゃんと読んだんです」
の表がわずかに変わった。
「昨まで正しいって言ったものが、今になったら違いなんですか」
教師は答えなかった。
誠はさらに続けた。
「じゃあ、また別のが違うことを言ったら、今度はそこを黒くするんですか」
何かの子どもがを止めた。
は黒板を見た。
そこには以の授業でいた文字が、消し切れずに残っていた。
「今は、しい指示がているんだ」
ようやく答えた。
「それだけですか」
「坂井」
「先は、どっちが本当だとってるんですか」
「坂井!」
の声が急にくなった。
誠は肩を震わせたが、には触れなかった。
もしばらく黙っていた。っているようにも、困っているようにも見えた。
やがて彼は、誠の机からしれた。
「今は授業です。ほかのは続けなさい」
そのの午。
誠の教科だけ、指定されたページがいまま残った。
昼休みになっても、誰もそのことをからかわなかった。
むしろ何かの子どもは、黒くなった自分のページと、誠のまだ読めるページを交互に見ていた。