"家出と呼んだ警察を私は許さない" 第1話
20028、猛暑の気がまだアスファルトにまとわりつく午のことだった。
初に本を沸かせたワールドカップの喧騒もすっかり落ち着き、お盆を過ぎた港町には、どこか気だるい静けさが戻っていた。 神戸の港を見ろす、すり鉢状の急な坂。 昭の面をそのまま残した造のが、互いに寄り添うように軒を連ねるの突き当たりに、その古い平はあった。
玄関先で履きの突っかけを履き、掃き掃除をしていた歳の森は、錆びついた郵便受けので、突如そのに崩れ落ちた。
「森さん、いらっしゃいますか。アメリカから、留が届いていますよ」
所を回っていた郵便配達員が、汗を拭いながら渡してきた通のエアーメール。 航空便を示す赤と青の縁取りが施された、見慣れないい封筒。 そのにタイプライターではなく、万の震えるような本語で記された差の名を見た瞬、の全から力が抜け落ちたのだ。
――森 航平。
19786。 今からの梅、歳で忽然と姿を消した、ひとり息子の名だった。
指先が激しく震えた。 膝に力が入らず、古い板塀にすがりつこうとしたが、爪が滑ってそのままに膝をついた。 封筒を握りしめたが、刻みに揺れる。
「あ、あの、森さん? 丈夫ですか」
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配達員が慌てて自転を止め、しゃがみ込んできた。 はをパクパクとかしたが、乾ききった喉からは掠れた息が漏れるばかりで、言葉にならない。
。 数にして千百を超える気のくなるようなを、ただこの瞬のためだけにき抜いてきたはずだった。 仏壇のに座るたび、のる夜にの音にを澄ますたび、息子の名をので幾万回と呼び続けてきた。 それなのに、いざその名が昼の陽のに突きつけられると、元から奈落へ突き落とされるような恐怖がこみげてきた。
もし、これが何かの違いだったらどうするのか。 残酷な悪ふざけだったら。 あるいは、息子はもうこの世におらず、誰かが遺品の理で見つけたを、今になって送りつけてきただけだとしたら。
「……すいません、丈夫です。受領印ですね、今、押しますから」
は途切れ途切れにそう告げると、エプロンのポケットから文判を取りし、受領証に震えるで朱肉を擦りつけた。 掠れた印を残し、配達員が配そうに何度も振り返りながらっていくのを、ただ見送った。
を抱えたまま、はうようにして玄関をがり、居の真んに座り込んだ。 古い畳には、柱計の規則正しい針の音だけが響いている。
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カタ、カタ、カタ。 磨りガラスの障子を透かして、いの陽射しが埃のう畳のに角いを落としていた。
封筒をけることができない。 鋏を持つが張り、封じ目に刃先を当てることすら躊躇われた。 これが偽りだとるくらいなら、けないまま胸に抱いてんだほうがいいのではないかといういと、刻もく息子の文字を確かめたいという衝が、胸ので激しくせめぎっていた。
そうして、が過ぎた。 蝉の声が段とくなった正午く、はく、く息を吐きした。 正座をし直し、エプロンで何度ものひらの汗を拭うと、封筒の端を慎につまみ、ゆっくりと引き裂いた。
から現れたのは、折り目のきっちりついた、い枚の便箋だった。 そこにかれていた文字を目にした瞬、の界は、溢れた涙で完全に滲んだ。
のあのから、止まっていたが、音をてて軋み始めていた。
*
19786、まだ港のクレーンが激しく稼働し、町に油の匂いと潮が混ざりっていた頃のことだ。
その坂の町は、坂が急すぎてもがれず、すれ違うのがやっとの狭いに、バラックにい古い々がひしめきっていた。 どのも貧しかった。 軒先には共同のから引いたホースが転がり、朝になれば煙突から練炭のい煙がちり、隣のの夕餉の匂いが筒抜けになっていた。
だが、々にはまだ、貧しさを分けってきる独特の逞しさと温もりがあった。