みかん小説
本棚

"地上二メートルから見上げる逆転の空" 第8話

「……あの浮きの音。俺は、今朝まで聞き分けられなかったよ」

久保田は煙を空へ吐きし、皺だらけの顔を歪めた。

からの現の段取りは、あんたに任せる。好きに仕切ってくれ」

「私はまだ、浦組さんのやり方を分に把握できていません。久保田さんにから教えていただきながらで、よろしいでしょうか?」

久保田は返事をする代わりに、「ふん」とを鳴らして笑った。

彼が現でそんな柔らかい笑い声を漏らしたのを、卓郎は父の事故以来、ぶりに聞いた気がした。

夕方。トラックが事務所のに滑り込むと、薫はエンジンが止まるがいか、りるようにして駆けしていった。

保育所の閉所である午が、刻刻と迫っていたのだ。

具袋を背負い、向の着替えが入ったきなカバンを両で抱え、駅の方角へと必っていく細いろ姿を、卓郎は彼女が角を曲がって見えなくなるまで、夕暮れのち尽くして見送っていた。

その背が、毎晩どれほど過酷な所へと向かっているのかを卓郎が本当のるのは、もうし先のことだった。

薫が入社してが過ぎる頃には、事務所の黒話が、に何度も甲いベルを鳴らすようになっていた。

壁塗装の親方が「浦組のしいは仕事がくて狂いがない」

広告

と仲に触れ回り、その噂を聞きつけた隣のから、直接の指名がい込むようになったのだ。

作業がくて美しく、何より構造の危険を元請けよりも先に見つけして未然に防いでくれる。職の腕がすべての狭い元の建築業界において、その確かな評判が広まるスピードは、卓郎たちの像を遥かに超えていた。

久保田は机ので分い請求をめくりながら、「まだするのはえよ」と悪態をつきつつも、その元は緩みっぱなしだった。

だが、毎朝事務所ので薫を迎えるたび、卓郎の胸には引っかかるものがあった。

彼女はいつ見ても、背と両に抱えきれないほどの荷物を提げて現れるのだ。

あるの朝、卓郎はたまらずそのについて尋ねてみた。

「娘の着替えとおむつ、連絡帳、それににはお昼寝用の布団式です」

薫は息をえながら、何でもないことのように微笑んで答えた。

「自宅のあるアパートからは、バスとを乗り継いでくかかります。朝の混んだ内ではベビーカーを畳まなければいけないので、娘を片腕で抱きげたまま、扉のそばにちっぱなしなんです。でも、働かせていただける所があるだけで本当にありがたいですから、これくらい何でもありません」

卓郎は返す言葉を失った。

広告

保育所がくのは朝の半。閉まるのは夕方の

その酷に引かれた本のタイムリミットの内側に、この女性は毎活と、幼い娘の命をギリギリの力で押し込めているのだ。

もっと遅いの空いているにできないのかと尋ねると、「その帯は本格な通勤ラッシュでもっと混雑しますし、夕方の帰りが遅くなれば、娘のリズムが崩れてしてしまうんです」と返ってきた。

そこまで聞いて、卓郎は胸の奥に湧きがった決を、ひとつの提案としてにした。

「……望さん。から、もうく事務所をけます」

「え?」

「うちに来てください。保育所が半まで、ここで娘さんと緒に待っていればいい」

薫は目を丸くし、両さく振った。

「そんな……社にそんなご迷惑をおかけするわけにはいきません」

「元々、俺はく来て聞を読んでいるだけですから。気にしないでください」

そうして翌朝から、浦組のしい朝が始まった。

夜がけたばかりの午。卓郎が事務所の鍵をけると、たいシャッターのに、さなつのが並んでっていた。

「おはようございます!」

「おはよう。……向ちゃんも、おはよう」

向は眠そうに目をこすりながらも、卓郎の顔を見げると、ちびた袋をしたさな片を胸のさでピンとげてみせた。

卓郎は作業の奥にある油コンロにをつけ、煤けたヤカンを乗せた。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: