"地上二メートルから見上げる逆転の空" 第5話
……それでも、よろしいんですか?」
薫は顔をげ、卓郎の目を真っ直ぐに見つめた。
「はい」
卓郎はさく息を吸い込み、机に両を置いた。
「では――採用させていただきます」
瞬、事務所ののすべての音が消えたかのように静まり返った。
薫は顔をげたまま、目を見張り、次に発すべき言葉を見失ったように固まっていた。カタカタと回る古い換気扇の羽の音だけが、やけにきく響く。
「……本当によろしいのでしょうか? 私のような者で」
「こちらこそ、お願いします。……来週の曜から、来ていただけますか?」
薫はすぐには声をせず、勢いよくちがると、く腰を折った。背がと平になるまでをげ、何度も、何度も刻みにをげ続けた。
母親のそのただならぬ様子を、きすぎるヘルメットをかぶった向が、議そうな顔で見げていた。
商会の共同利用保育所に、最のひと枠だけ空きが残っていることを卓郎が役所の窓で確認したのは、そのの午のことだった。
フルタイムの就労証さえ会社側が発すれば、週けの曜から預け入れが能だと聞き、卓郎はそのでボールペンをらせて類をきげた。向の入園枠は、滑り込みでその最のひとつに収まった。
親子がをげて事務所をてった、久保田は流し台で自分の湯呑みをジャブジャブと洗いしながら、背越しに独り言のように呟いた。
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「社。……来の資材への支払い、分かってんだろうな?」
「……分かってますよ」
卓郎は乾いた声で答えた。
机の引きしの奥にしまい込んである通帳の残は、このまま仕事が増えなければ、来のまで持つかどうかという危険域に入っていた。
「分かってんならいい。……『何かあったら俺が全部責任を取る』ってツラして腹を括るのあんたは、あの頑固親父にそっくりだ」
久保田はそれ以何も言わず、作業の袖を乱暴にまくりげながら、埃っぽいへとてった。
きりになった事務所で、卓郎は机のに残された履歴の氏名を、もう度じっと見つめた。
『望薫』。
その苗字の響きと、先ほど見せた横顔の輪郭に、やはり確かな記憶の引っかかりがあった。
自分がまだ学だった頃、休みのに通っていたの児童ものづくりセンター。そこに、いつも同じ作業台で黙々とを削っていた、同じ苗字の女の子がいたはずだった。
確か、折りたたむと枚の平らな板になり、広げると頑丈な体になる、議な製の櫓を作っていた女――。
けれど卓郎は、そのい記憶の糸を、今はまだ繰り寄せてにすことはしなかった。
曜の朝。
事務所のい鉄製シャッターを押しげるガラガラという属音よりく、砂利を踏みしめるさな音がから聞こえてきた。
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計の針は、午分を指している。
卓郎が引き戸をけると、たい朝靄のに薫がっていた。背には自分の胴当てベルトと具袋を斜めに背負い、には向の着替えやおむつが詰め込まれたきなナイロンバッグを提げている。
その元では、まだ眠気に目をこすりながら、向が母親の作業ズボンの裾をさなでギュッと握りしめていた。
「おはようございます。今からお世話になります、望です。よろしくお願いいたします」
「おはようございます。……随分とおいですね」
卓郎が目を丸くして迎えると、薫は申し訳なさそうに眉をげた。
「の接続と本数の都で、どうしてもこのに着いてしまうんです」
聞けば、駅ビルのワンフロアにある共同保育所がくのは朝の半で、それまでの、幼い娘を連れて待てる所がどこにもないのだという。
卓郎はこの、それがのものも、毎朝欠かさず続く常なのだということまでは、まだ像が及んでいなかった。
半に娘を無事に預け、に事務所へ戻ってきた薫の額には、っすらと汗が滲んでいた。
卓郎は壁のヘルメットをに取りながら尋ねた。
「向ちゃん、丈夫でしたか?」
「初めての所だったので、預けるにい切り泣かれました」