"汚れた手と呼んだ義母へ" 第8話
恵子は提されたの署名を入りに確認すると、それを丁寧にファイルに収めた。
「確かに頂戴いたしました。これより『グランドメゾン京都』へ向かいます。美咲、材の準備を」
「はい!」
美咲はハッキリとした声で答えた。
佐伯という名の虚飾が、母の圧倒な専性と信のに砕け散っていく様を目の当たりにし、美咲の胸にはかつてない誇りと確信が満ちあふれていた。
午分。
『グランドメゾン京都』の最階VIPルーム。
廊には苦しい緊張が漂っていた。部のからは、相変わらず具が破壊される音と、健郎の痛な叫び声が続いていた。
「殺される! ワシを毒殺する気だ! 誰も信用できるかぁ!」
ドアの脇には、ヘルメットとアクリルシールドを装備した施設の警警備員たちが、息を殺して控えていた。
監モニターには、崇、雅代、翔太の名が固唾をのんで画面を見つめていた。雅代は「どうせあの女だって、部に入った瞬に襲われて逃げしてくるに決まっているわ」と、呪いのように呟いていた。
しかし、恵子のきは佐伯の像を遥かに超えていた。
恵子は防護もヘルメットも着用しなかった。ただの作業ユニフォームのまま、ドアのにった。
「美咲、照の調を。廊のライトを段階落として、温から系に切り替えて」
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「解です」
美咲が元のコントロールパネルを操作し、廊と内を照らす刺すようなLEDのを、柔らかく落ち着いた接照へと切り替えた。これだけで、覚過敏に陥っている認症患者の脳への過剰な刺激が劇に減する。
「次に、音律の準備を」
恵子の指示に従い、同した若介護士が持参したポータブルのアナログレコードプレイヤーをセッティングした。
恵子が自分のバッグから取りしたのは、枚の古い黒盤レコードだった。
それは、健郎がかつて学教授代、執務で好んで聴いていたという1960代のバッハの無伴奏チェロ組曲のヴィンテージ盤だった。事に政の活履歴アーカイブから割りしておいた、健郎の「最も全でしていた記憶」に直結する音源である。
静かに針が落とされた。
ブツブツというアナログ特の温かいノイズとともに、くなチェロの音が廊から内に向かって柔らかく流れ始めた。
その瞬、内で狂ったように暴れていた健郎の作が、ぴたりと止まった。
「……? なんだ……この音は……」
恵子はゆっくりとドアをけた。
内は惨な状態だった。割れたガラス、倒れたスタンドライト、引きちぎられたカーテン。その央で、健郎がにガラス片を持ったまま、呆然と佇んでいた。
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恵子は決して急いでづかなかった。
ドアから・メートルれた位置——認症患者がパーソナルスペースを脅かされたとじない絶妙な距でを止めた。
恵子は体のをく落とし、健郎と目線のさをわせるように膝を折った。そして、度く息を吐き、健郎の荒い呼吸のリズムに自分の呼吸を同調させた(音律誘導法)。
「佐伯教授」
恵子の声は、叫び声の響く部ので、まるで静かな面のように通った。
「本の講義、誠にお見事におさまりましたね。学たちも変銘を受けておりましたよ」
健郎の目が泳いだ。
「講義……? ワシの……講義か……?」
「ええ。法哲学の第講義でございます。はしのがえてまいりました。温かいお茶をご用いたしましたので、しお休みになられませんか」
恵子は健郎を「暴れる認症患者」として扱わなかった。彼の失われかけた記憶のから「最も誇りく、全だった学教授としての自己」を引っ張りし、その尊厳に対して最限の敬を払って語りかけたのだ。
恵子は線を健郎の目からしし、威圧を与えないよう斜めへ向けながら、ゆっくりと元で温かいおしぼりを広げた。
「がしお汚れのようです。教授のは、素らしい著をおきになる切なおでございますから」
健郎のが、さく震えた。
チェロの温かい音が部を満たす、健郎の瞳から狂乱のが消え、代わりにい混乱と寂しさが浮かびがってきた。