"恩に沈む猛獣舎" 第1話
2002917、曜。兵庫県宝塚のれでは、9も半ばを過ぎたというのに、丘の斜面からまだ蝉の声が聞こえていた。
1匹が鳴き止むと、しを置いて別の1匹が鳴き始める。の盛りのような勢いはなく、季節に取り残されたような、途切れ途切れの声だった。
空はっぽく曇っていた。がるほどではないが、陽射しはく、もほとんどない。
丘の麓には、4階建ての古い団が5棟並んでいた。エレベーターはなく、ベランダには朝くから布団や洗濯物が干され、その向こうにはを垂れた稲田が広がっている。
宝塚と聞けば、華やかな劇や駅をい浮かべるがい。
しかし、この辺りはまるで別の町だった。
古いパン、酒、板の文字が半分消えた気、週に数しかかない理髪。その商の裏から、ひび割れた細い坂を5分ほどった先に、錆びたアーチがっていた。
そこに、褪せた青い文字でこうかれていた。
宝塚緑物園。
戦もなく、元の運送会社の創業者が域への恩返しとして始めた、さな私設物園だった。
最初はヤギ、鶏、ウサギがいるだけの広にかったという。それがしずつ規模を広げ、猿や熊が入り、期は象まで飼育されていた。
最も賑わったのは昭40代の終わり頃だった。
曜になると団の子供たちが列を作って坂をがり、ソフトクリームの売には列ができた。
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ポニー乗りでは順番を待つ親子の声が絶えなかった。
だが2002には、その面はほとんど残っていなかった。
飼育員は8。
入園料は500円、子供100円。平の来園者は30いればい方で、曜でも200に届かないことが珍しくなかった。
それでも、物園は毎朝きちんといた。
午8ちょうど。
28歳の飼育員、椎名は職員通用の横に自転を止めた。採用されて6目で、園内のほとんどの仕事には慣れていた。
自転のスタンドをろした、椎名は猛獣舎の方を見て首を傾げた。
かりがついていない。
猛獣舎のにはさな裸球があり、朝になると必ず点灯していた。
点けるのは郡、54歳。
勤続27。
園内で最も古い飼育員だった。
郡は毎朝、誰よりもく来ていた。もも正も関係なく、午6には園内を歩き始める。
椎名が勤する頃には、猛獣舎の裏からホースでを流す音や、属製のバケツをへ置く音が聞こえている。
それが、椎名にとってこの6の「いつもの朝」だった。
その音がしない。
椎名はポケットに自転の鍵を入れ、猛獣舎へ向かった。
建物はコンクリート造りの平で、根は古いトタンだった。表から見ればまだ物園らしい形を保っていたが、裏に回ると壁はひびだらけで、の違うモルタルが何本もの筋になってっている。
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「これ、全部郡さんが自分で直したんやで」
以、先輩からそう聞いたことがあった。
業者を呼べばがかかる。
だから郡は、壁が割れるたびに自分でセメントを練り、穴を埋めた。
裏をけると、いつもの匂いがした。
獣。
消毒液。
湿ったコンクリート。
それらが混ざった、この建物だけの濃い匂いだった。
「郡さん?」
返事はない。
は暗かった。さな窓しかないため、昼でも照がなければ元が見えにくい。
椎名は壁を探りし、スイッチを押した。
裸球が、じじ、とさく鳴って灯った。
その黄いので、椎名はを止めた。
の央に、1の靴があった。
郡のものだった。
黒いゴム製で、かかとは擦れ、片方には補修用のテープが巻かれている。郡が何も履き続けているのを、椎名はっていた。
だが、その置かれ方がおかしかった。
の隔がきれいに揃えられ、つま先は真っすぐ扉の方を向いている。
まるでのから帰る、玄関で靴を揃えたようだった。
「なんで……ここで脱ぐんや」
椎名は独り言のように呟いた。
飼育員が靴を脱ぐこと自体は珍しくない。しかし、それは作業を終えて事務所へ戻ったや、休憩へ入るだった。
猛獣舎ので、作業の途に靴だけを脱ぐ理由がない。
しかも、こんなに丁寧に。
靴のすぐ横には、1冊の飼育帳が置いてあった。