"午後4時の失踪日記" 第8話
しかし、並が犯であると断定するには証拠がしていた。
記に登するKが並であるという直接な証拠はなく、殺害為を目撃した物もいない。並の宿泊記録や携帯話の位置は、浜周辺にいた事実を示すだけだと判断された。
検察は控訴した。
だが20123、等裁判所も同じ理由で無罪を言い渡した。告も退けられ、並の無罪が確定した。
法廷からてきた並は、報陣の質問に答えず、迎えのへ乗り込んだ。
民のでは、並が犯である能性はいという声が残った。方で、状況証拠だけでを罪にしてはならないという見もあった。
Kは本当に並だったのか。
記に登したHとJは誰だったのか。
古品へ鞄を持ち込んだ男性は、どこへ消えたのか。
どの問いにも、確かな答えはなかった。
並の無罪が確定しても、佐藤健事件そのものが解決したわけではなかった。
警察は別の犯がする能性を残し、未解決事件として捜査を継続すると発表した。しい証拠や証言があれば、いつでも再捜査に着するというだった。
しかし族にとって、12ぶりに見えた希望は再びざかった。
裁判を見守り続けた美の体調は急激に悪化した。判決を聞いたは事もほとんど取れず、寝で健の記を何度も読み返した。
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「どうして話してくれなかったの」
記を胸へ抱え、美は何度も同じ言葉をにした。
「おのことなら、お母さんたちが何とかしたのに」
輔は民事訴訟も検討した。
刑事裁判とは異なる基準で責任を問えないかと弁護士へ相談したが、並と健を直接結びつける証拠が乏しい状況は変わらなかった。
2012末、族と支援者たちは、浜浴のくにさな慰霊碑を建てる計画を始めた。
民から寄付を募り、を見渡せる所に素朴な碑が設置された。そこには健の名と、「忘れません」という言葉が刻まれた。
除幕式には、100い々が集まった。
事件を報でった民、失踪者の族、学代の友、当ビラを目にした民たちがを向けた。
健の遺品は、両親ので切に保管された。
古品から戻ってきた鞄と記。学証、割、専。そして失踪したに浴へ残されていた運靴とタオル。
両親は、息子が帰る能性がほとんどないと理解しながらも、何1つ処分しなかった。
輔は失踪者族の会へ参加し、同じ苦しみを抱える々と交流するようになった。
期未解決事件への関を失わないこと、族と警察の連絡を途切れさせないこと、初捜査の体制を改善することを求め、齢をねても活を続けた。
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2013には、期失踪者の族を支援する相談制度が域でえられた。
警察との連絡窓を設け、捜査状況を定期に族へ説する仕組みも導入された。佐藤健事件で、族が報から取り残されたことが制度見直しの契になった。
遺失物の管理方法も改められた。
健の鞄が12、所のまま古品へ流れていたことから、期保管品の定期確認や方者報との照が化された。
浴にも監カメラが増設された。
方者の届けを受けた際、晩待たずに捜索を始めるための順もえられた。1998に失われた最初の20を、度と繰り返さないためだった。
学では、学を狙ったアルバイト詐欺や銭トラブルの相談窓が設けられた。
収入を謳う審な求に注するよう呼びかけ、学が族や友へ話せない問題を1で抱え込まないよう支援する取り組みも始まった。
だが、制度が変わっても健は戻らなかった。
2014、美は病気のためくなった。
最期まで息子を待ち続けたが、健がどこにいるのかることはできなかった。葬儀では、美の遺の隣に、23歳の健の写真が置かれた。
1残された輔は、それでも毎815に慰霊碑を訪れた。
浜の砂浜にち、を見つめた、を供えた。
しい報が入れば警察へ問いわせ、どれほどさな話でも確認を求めた。
2019、健の失踪から21を迎えた、輔は最の記者会見をいた。