"午後4時の失踪日記" 第3話
「似た男性を方の駅で見た」
そう聞いて夫婦が急いで向かったこともある。だが、現で確認した男性は健とは全くの別だった。
失踪から1が経った19998、輔は再び警察署を訪れた。
捜査に展があったかと尋ねたが、しい目撃報も物証もないという答えだった。事件は、事実の期未解決案件として扱われ始めていた。
佐藤では、健の部が失踪当のまま残されていた。
机のには学の教材が積まれ、壁には就職説会の程表が貼られていた。引きしのの文具もかさず、洗濯してあったも元の所へ戻された。
「帰ってきた、部が変わっていたら落ち着かないでしょう」
美はそう言って、埃だけを静かに拭いた。
盆や誕が来るたび、夫婦の苦しみはくなった。誕には健が好きだったケーキを買い、誰も座らない子のへ置いた。
1999の盆には、健の分の事も用した。
美は玄関の灯りを夜通しつけたままにし、物音がするたびにちがった。だが、朝になっても扉がくことはなかった。
夫婦の健康もしずつ悪化した。
美は眠れないが続き、薬がなければ夜を越せなくなった。輔もの経営へ集できず、常連客から声をかけられても、会話の途で息子のことを考え込むようになった。
広告
方、健の失踪を巡って、学内ではさまざまな噂が広がった。
失踪直の健は沈んでいた。就職活や計のことに悩んでいた。が辛いと、同じ学科の女子学へ漏らしていたという話もた。
「1かくらいだったといます」
女子学は警察へそう証言した。
「健君が、何をやってもうまくいかないと話していました。でも、刻なだとはわなかったんです」
親しい友たちは、自発失踪説にく反発した。
健は両親を切にしており、計が苦しいことも理解していた。だからこそ学を卒業し、く就職して親を助けたいと話していたという。
別の噂では、健が良グループや暴力団関係者と接触していたとされた。
1990代半の浴周辺では、若者同士の揉め事も発していた。失踪の数、健が1で浜付を歩いていたという曖昧な証言も、その噂を広げた。
当、健との男性が話している姿を見たという話もあった。
しかし証言者は装も顔も覚えておらず、もはっきりしなかった。捜査員が確認しようとしても、噂がからへ伝わるうちに内容が変わっていた。
健がしい分でどこかに暮らしている。
組織犯罪へ巻き込まれた。
就職の圧から逃げた。
で事故に遭った。
憶測は増え続けたが、どれにも決定な根拠はなかった。
広告
警察は報を1つずつ確認したものの、その作業が捜査をさらに混乱させた。
2000代に入ると、佐藤健の名は世の記憶からしずつれていった。
警察署に保管された捜査記録はさ10cmを超えていたが、その半は初期捜査の記録と、裏付けの取れなかった通報だった。たな証言や物証は何も加わらなかった。
事件を担当していた鈴警察官は2003に別の域へ転任した。
2005に定退職を迎えた際、鈴は佐藤健の失踪を最も残りな未解決事件として挙げた。分な初対応ができなかったことを、涯の悔いとして語った。
両親は、それでも毎815に浜を訪れた。
最初の頃は、現へけば息子が帰ってくるような気がしていた。が経つと、それは希望を確かめるためというより、息子が消えたを忘れないための儀式へ変わっていった。
2007頃から、美の健康は急激に悪化した。
の眠と精神な負担に加え、糖尿病や血圧も抱えるようになった。につことが難しくなり、輔が1で文具を切り盛りした。
しかし所に型が業すると、売りげはさらに落ち込んだ。
2008の経済況もなり、夫婦は続けてきたを畳んだ。健とのいが残るも放し、さなアパートへ引っ越した。
学の同期たちも、それぞれのを歩んでいた。
就職し、結婚し、子供を育てる齢になった。